第54章 記憶
「失礼致します、奥方様。御館様がお呼びでございます。すぐに天主に参られるように、と」
秀吉さんが帰った後、すぐに動けず、その場に座り込んだまま、ぼんやりと物想いに耽っていると、襖の向こうから突然、声がかかる。
「は、はいっ…すぐ行きます」
(信長様…どんな顔して会えばいいんだろう…)
広間で見た信長様の冷たい目が脳裏に浮かび、全身に緊張が走る。
今までにない程の緊張感から、ぎこちない足取りで私は天主へ向かったのだった。
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「…信長様、失礼致します…」
「…………………………入れ」
長い沈黙の後、入室の許可を得てそっと襖を開くと、信長様は廻縁に出て月を見上げておられた。
蒼白い月明かりに照らされた頬は透き通るように白く、固く引き結ばれた薄い唇も何となく血色が悪かった。
「…っ…あの…信長様、お身体は大丈夫ですか?お怪我などなさっておられませんかっ??」
顔色がお悪いような気がして思わず聞いてしまった私を、信長様はゆっくりと振り向きながら怪訝そうに見遣る。
「…………貴様、何故そんなことを聞く?」
「あっ…何となくいつもよりお顔の色が悪いような気がして……落馬されたと聞きましたし……ごめんなさい、余計なことを…」
「…………いや…怪我はない。落ちる瞬間、受け身を取ったからな………まあ、秀吉が言うには、頭を打っているらしいが…」
「……その時のこと、覚えていらっしゃらないのですか?」
「馬から落ちたことは覚えている。だが…その前のことは思い出せん。色々と記憶が抜け落ちているようだ。
貴様は…俺の正室だそうだな」
探るような視線と他人行儀な言い方に、ズキンっと胸が痛む。
「………はい」
思わず縋るように上目遣いで見つめてしまうと、目が合った信長様は眉を顰めて苦しそうに息を吐かれた。
「っ…俺は…生涯、妻を迎えるつもりはなかった。特別な存在の者は大望を叶える妨げになると思っていたからだ。だが、貴様を妻に迎え、子まで為した、ということは、貴様は俺の心を変えるほどの特別な女だったいうことか……」
「…っ…信長様…」
悩み苦しそうなそのお姿に、手を伸ばして抱き締めたい衝動に駆られるけれど、今の私がそれをしてもいいのだろうか、と躊躇う気持ちもあって伸ばしかけた手を途中で止めてぎゅっと拳を握り締めた。