第53章 業炎
「朱里、此度の戦は兵力も我が方が圧倒的に上回っておる。今や、一向一揆など恐るるに足らん。貴様が案ずることは何もない。
結華とともに俺の帰りを待っておれ」
自信に満ちた信長様の言葉は力強く、私の心に響いてくる。
信長様の仰るとおり、此度の戦もきっと信長様は勝利されるだろう。
けれど…憎しみ、怨み、苦しみ、悲しみ…そういった負の感情が一斉に信長様に向けられる…それはきっと信長様の心の奥を傷つける…信長様本人が気付かない、深い深い心の内を……
私はただ祈ることしかできない。
お怪我をなさらないように…早く戦が終わるように…ご無事でお戻りになられるように……
この安土の城で、信長様がお帰りになるのを、ただ待つことしかできない無力な自分が不甲斐なくて悔しくて、気が付けば唇をきつく噛みながら俯いてしまっていた。
「…朱里…顔を見せよ」
信長様の細く長い指先が顎を捉えて、俯いていた私の顔を上げさせる。
信長様の端正な顔が、鼻先が触れそうな距離まで近づいたかと思うと、そっと唇に触れるだけの優しい口づけが落ちてきた。
「っ…んっ…」
目を閉じる間もないぐらいの一瞬の口づけは、唇が離れた後で、逆にじわじわと恋しさが募ってゆく。
「…信長さまっ」
胸の奥から込み上げる切ない気持ちを抑えられぬまま、信長様の胸に縋りついていた。
今にも零れ落ちそうな涙を必死に堪えて、逞しいその胸元に顔を埋める。
(戦場に赴かれる信長様に、こんな姿見せてはいけないのに……
夫が後顧の憂いなく出陣できるようにお見送りするのが妻の務めだというのに、私は……)
そう思い、揺れ動く心とは裏腹に、信長様に縋る腕には力がこもり、身体を離すことはできなかった。
そのまま暫く、一言も発さぬまま互いに抱き締め合い、ぬくもりを分かち合う。
やがて信長様は私の身体をそっと離すと、その深紅の瞳で真っ直ぐに私を見つめる。
「朱里…待っていてくれ。必ず無事に戻る。
俺が帰る場所は貴様のもとだけなのだから…」
「…っ…はい、お帰りをお待ちしています…信長様…」