第50章 花惑い
結華の誕生日の祝いには、政宗や家康の他にも重臣達が集まっていて、信長様はその場で皆に自身の考えを述べられたのだった。
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『この場で、皆に改めていくつか申しておきたいことがある。
一つ目は、俺の跡目のことだ。
皆が、俺に世継ぎがおらぬことを案じているのは知っている。
側室を迎えるべきだという声が上がっていることも、な。
皆の意見は理解できる…だが、この場ではっきり言っておく。
俺は今後も側室を持つことはない。
今後、正室に男子が産まれねば、俺の跡目は、然るべき能力のある男を結華の婿にとって、継がせることとする。
また、たとえ男子が産まれても、跡目を継ぐような器量でなければ無理に継がせるようなことはせぬ。
故に、今後、世継ぎの件を論じることを禁ずる。
また、俺に側室を薦めることも許さぬ。
このこと、肝に銘じておけ』
『二つ目は、この安土の城についてである。
かねてよりの計画どおり、城移りを行う。
新しい居城は、摂津の石山本願寺跡地に築城を進めている。
今すぐではないが、効率よく城移りができるように各々、準備を進めておくがよい』
『三つ目は、今後の政の在り方についてである。
民や各地の大名達の意見を幅広く聞き、皆の話し合いで政を進めていくことが好ましい。
これよりは、武力ではなく対話による政を行う』
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長きに渡る本願寺との争いに終止符が打たれて、双方の間に和睦が成立し、法主である顕如が紀州へと退去した後、信長様は本願寺の跡地に新たな城を築城することを計画された。
そもそも信長様と本願寺との争いは、本願寺に石山の地を明け渡すよう命じた信長様の命を本願寺が拒否したことに端を発し、顕如の呼びかけにより、信長様に敵対する一向一揆が各地に広まっていったのだった。
この地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。
異国との貿易の窓口である堺の港にも近く、信長様はこの立地を高く評価しておられ、摂津石山の地に安土以上の広大な城を築城することは信長様の当初からの目的であった。
私が信長様に出逢い、安土へと来た時、その頃から徐々に築城の計画は進められていたそうで、秀吉さん主導の下、時間をかけて作り上げられていたのだった。