第45章 追憶〜家康編
あの頃の俺は弱かった。
母親は、俺が赤子の時に離縁され、織田方の実家に返されていたから、顔も憶えていない。
たまに来る文だけが、俺と母とを繋ぐ唯一の接点だった。
父親は、俺が尾張国の人質になっている間に家臣の裏切りにあい、呆気なく死んだ。
俺の故郷、三河国は今川家に好き放題に荒らされて…力のない俺はそのことに只々、唇を噛んで耐えるしかなかったんだ。
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その日、俺はいつものように木の下で書物を読んでいた。
人質といっても別に幽閉される訳じゃない。
俺は尾張国の萬松寺という寺に入れられて、そこの住職から、読み書きなどの学問を教わっていた。
もちろん見張りは付けられていたけれど、寺の周りぐらいなら出歩いても咎められることはなくて、俺は空いた時間はいつもこの木の下で一人で過ごしていた。
書物に視線を落としていると、複数の荒々しい足音が聞こえてきて……あっという間にガラの悪い若者数人に取り囲まれていた。
「こいつか?三河から来た人質っていうのは?」
「小さくて弱々しい餓鬼だなぁ」
「どうせ、本ばっか読んでて弱いんだろ?そんなんだから家臣に裏切られて織田に売られるんだよ」
あはははっ、と頭の上から蔑まれた笑い声を投げかけられる。
(っ…悔しいっ…だけど、今の俺にはどうしようもない…)
「………………」
「チッ、だんまりかよ、情けねえ奴だな。ん?何だこれ?人質のくせに、大層ご立派なもん、持ってるじゃねえか」
一際大柄な男が、俺の脇差に目を留めて、腰から素早く抜きさった。目の前にかざして、わざとらしくひらひらと振ってみせる。
「っ…、返せっ!」
慌てて男の腕にしがみついて脇差を取り返そうとする。
(母上から頂いた大事な脇差なんだ…取られるわけには…)
「うるさいっ!退けっ!」
大きく腕を振られて、はじき飛ばされると、その場に尻餅をついてしまう。
そんな俺の情けない姿に、また男達の笑い声が上がる。
(っ…悔しいっ悔しいっ…何で俺は…)
その時だった
頭上の木の上から、ヒュッヒュッと風を切る音がして何かが飛んできたかと思うと、俺を取り囲んでいた男達の顔面にボコッという派手な音を立てて、次々に命中していった。
「痛えっ、な、何だ?」
(えっ…なに?……これ…柿?)
頭上から飛んできたのは、熟す前の青々とした青柿だった。