第42章 甘い誘惑
光秀と別れて天主へと戻った信長は、後ろ手で襖を閉じて、ふぅーっと大きく息を吐く。軍議の間中ずっと溜めていた、もやもやした気持ちを一気に吐き出すかのように……。
「くっ…朱里っ…」
光秀から受け取った袱紗包を文机の上に置いて、その中の一房の髪の束にそっと触れる。
艶やかな黒髪 何度も梳いてやった 昨日の朝もこの手で触れたというのに……
今、どこにいるのか…
泣いているのではないか…
あの華奢な身体で…子が腹におるというのに…
朱里のことを考えただけで、気が狂いそうになる。
軍議の間中、己を抑えるのに必死だった。自分のことながら、気を抜けば発狂するのではないかとも思う。
全ての感情を押し殺し、ただ戦のことだけ考えるようにした。
そうしなければ、今の俺はきっと、正しい判断が出来ないだろう。
勝つためならば、どんな手でも使ってやる。
愚かな男だと罵られようとも構わん。
朱里を取り戻すために、この手が数多の血に塗れようとも…それが朱里を悲しませる結果になったとしても…もう一度朱里をこの腕に抱くためならば、どんな愚かなことでもする。
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同じ頃、天主へ戻る信長を見送った光秀は、秘かに安土を発って堺へ向かおうとしていた。
城門でその行く手を遮るように現れたのは……
「…光秀、待て。どこへ行く?また単独行動か?」
「秀吉か…御館様の御命令だ。俺は先に堺へ行く…元就の足取りを追うためにな…」
先程の信長とのやり取りを簡単に説明する。朱里の髪と耳飾りの件を聞いた秀吉は、辛そうに顔を歪める。
「っ…朱里、可哀想に…女の髪を切るなんて…元就のやつ、絶対に許さねぇ!」
「……秀吉、御館様を頼む。軍議では、いつも以上に冷静で的確なご様子だったが…感情の一切を捨ててしまわれたようなお顔だった。お心の内が心配だ。お前が御館様をお支えしてくれ。俺は、俺のできることをする」
「光秀、お前……。
分かった。御館様は俺が命にかえてもお守りする。
だが……俺とお前は、御館様の右腕と左腕だ。どちらが欠けても、御館様をお支えできない。光秀…無茶するなよ」
光秀は秀吉と固く視線を合わせると、急ぎ足でその場を去って行く。残った秀吉もまた、出陣の準備の為に城内へと戻って行った。
朱里のために
信長のために
二人が想うのはただそれだけ