第42章 甘い誘惑
「秀吉っ!朱里はまだ見つからんのかっ?貴様ら、揃いも揃って何をしているっ!」
上座で珍しく声を荒げて叱責する信長の恐ろしい形相に、秀吉は堪らず額を畳に擦りつけて平伏する。
「っ…も、申し訳ございませんっ。城下外にも探索の手を広げておりますが、いまだ有益な情報がなく…っ、今しばらくお待ち願いたく…」
(っ…怖え…こんな鬼気迫る恐ろしい顔の御館様、初めて見る)
朱里が城下へ買い物に出たまま昼を過ぎても戻らず、路地裏で護衛の家臣たちの変わり果てた骸と、気を失った千代が見つかってから、丸一日が経っていた。いまだ朱里の行方は何一つ分からないまま、じりじりと時だけが過ぎていた。
「家康っ、千代の様子はどうだ?意識は戻ったかっ?」
「それが…強い眠り薬を嗅がされているらしく、まだ…」
「っ…くっ…」
怒りと苛立ち、憤り、不安、と様々な感情を露わにしてきつく唇を噛み締める信長の姿に、広間に集まった武将達は誰一人、かける言葉が見つからない。
(御館様がこんな風に感情を表に出されるとは…戦場で本陣を急襲された時でも顔色一つ変えられないお方が……)
「……御館様、実は堺から気になる情報が…」
それまで黙って控えていた光秀が徐に口を開く。
「堺からだと?光秀、どんな情報だっ?早く言えっ」
苛々と落ち着きのない様子で声を荒げる信長に対し、光秀は嫌味なほど冷静に淡々と報告する。
「数日前より、堺の港で見慣れぬ異国の船が停泊しており、その船が出航の準備を始めていると…。見た者の話では、派手な格好の海賊のような男が船員どもに命令を下しているとか。
その男、朱里が最後に訪れた菓子屋の前で目撃されている男と特徴が似ております」
「………毛利か?」
「確証はありませんが…可能性は高いかと」
光秀の言葉を聞くと、信長は一つ大きく息を吐き、何事か思案するように深紅の瞳を細めてじっと口を閉じる。
その姿からは先程までの落ち着きのない様は見られず、纏う雰囲気も、常の侵し難い威厳を取り戻していた。
やがてゆっくりと口を開くと、
「光秀、九鬼水軍に戦支度を命じよ……堺へ行く」
「はっ!」
「お、お待ち下さい、御館様っ。確証のないまま、ご自身で動かれるなど危険です!堺へは俺と光秀で参りますっ。御館様は安土でお待ち下さいっ!」