第42章 甘い誘惑
「…よう、お姫さん、起きてたのか?気分はどうだ?」
口元に微かな笑みを浮かべながら、ゆっくりと近づいてくる。
(微笑んでるけど…目は全然笑ってない。信長様と同じ紅い瞳なのに、全然違う。この人の目は、何の感情も読み取れない…)
「っ…それ以上近寄らないでっ!…貴方、誰? 何の為に私を? ここはどこなんですか?」
「ちっ、煩い女だな。そんなにぽんぽん質問しなくても、教えてやるって言っただろうが。
俺の名前は……毛利元就だ。信長の奥方なら、毛利の名前ぐらいは知ってるだろ?」
「……毛利……元就…?」
告げられた名前に、絶望にも似た衝撃が身体中を駆けめぐる。
(信長様の狙撃を命じた男…織田軍が行方を追っていた謀神と呼ばれる武将…それが今、目の前にいるこの男なの??)
半信半疑で見つめる私の視線を、逸らすことなく、反対に鋭く刺すような目で睨み付けてくる。
「私を攫って……どうするつもりですか?」
膨れあがるばかりの不安を抑えるために強く拳を握り締めて、元就に向かい合う。
「くくっ…もうすぐ西で花火が上がる。派手な祭りの始まりだ。
お前は…切り札だ。信長を祭りの舞台に引きずり出して……叩き落とす為のな…くくくっ…」
残忍な光を目の奥に宿して、さも愉快そうに笑いながら小銃を手の内で弄ぶその姿に、恐怖心が増していく。
(っ…怖い。信長様…)
思わず視線を逸らして下を向いたその時、耳元で紫水晶の耳飾りがシャランと澄んだ音を立てて揺れた。
重苦しい部屋の空気を一変させるような、澄んだ音色。
それは元就の興味を引いてしまったようで、あっという間に私に近づくと、クイっと顎を持ち上げられて…耳朶にその指が触れる。
「……っ…」
「…へぇ、紫水晶か…大したもん付けてやがる。この大きさの石は異国でもなかなか手に入らねえ。さすがは信長の寵妃様だな」
嘲るように言いながら耳飾りを弄んだ後、耳から乱暴に引き千切るようにして外された。
「…っ…いや…返してっ!」
「心配すんな。こいつはお前の髪と一緒に信長に送りつけてやる。あの冷酷無比な魔王がどんな顔するのか、見ものだな、クッ…」
元就が私の髪を一房切り落として、耳飾りと共に部屋を出て行った後、私は力が抜けたようにへなへなと寝台の上に座り込んだ。
(これからどうすれば…信長様…ごめんなさい…)