第36章 母というもの
信長は夢を見ていた。
幼き日の自分は、母の為にと野の花を摘んでいる。
母上のような美しい真っ白な花。
腕いっぱいに抱えて、母の住む城へ届ける為に小さな足で歩いている。
「母上は喜んで下さるかな。俺を見て『吉法師、たくさん摘んだわね』と褒めて下さるかな」
母上の笑顔が見たくて、幼い子供の足では遠すぎる距離を一人きりで歩いてゆく。
ようやく城が見えてきた……と、そこでハッと目が覚めた。
「っ…夢か…」
夢など久しく見ることはなかった…ましてや幼き頃の夢など…
あの後、どうなったんだったか…
……あぁ、そうだ…会えなかったのだ。母上は、出てきては下さらなかった。あの花は…どうなったのか…思い出せん。
気がつくと口の中がカラカラに渇いており、水でも飲もうと起き上がる。
今宵は月が明るく、障子から射し込んだ月の光が、隣に眠る朱里の顔をふんわりと照らしている。
文机の上の水差しに手を伸ばしかけて、その隣に置かれた文の束に気がついた。母上の文…朱里が置いたのだろう。
しばらくの間、文の束を見つめたまま、身動きできずにいたが、徐に、重ねられたその一番上の文を手に取って開いてみる。
美しい流れるような字 これが母上の字か…
『吉法師へ
元気にしていますか?読み書きが上手にできるようになったと聞いて、母はこの文を書いています。
最近、よく城下に出ていると聞きました。
貴方は織田家の跡取りなのだから、あまり無茶をしてはいけませんよ。母は、貴方が怪我などしていないかと心配でなりません。
平手の爺の言うことをよく聞いて、勉学に励みなさい』
『吉法師へ
元気にしていますか?
先日はたくさんの綺麗なお花をありがとう。一人で摘んだそうね。たくさん摘んで偉かったわね。吉法師は優しい子ね。
会えなくてごめんなさい。母も貴方に会いたかったですよ。
貴方がくれたお花は大事に取ってあります。
立派な城主になれるように、日々の鍛錬を怠らぬよう努力しなさい』
「……くっ…母上っ…」
次々に開いて読んでみるも、その全てに、俺を案じる母の優しい言葉が書かれていて、読むたびに胸が詰まって苦しくなる。
母とは…母の愛とは……このように大きなものなのか。
複雑に絡み合った糸がゆっくりと解けていくような心地よい感情が溢れていくのを、最早抑えることはできなかった。