第36章 母というもの
「くっ…何故、貴女がここにおられる?
朱里、貴様、俺を謀ったのか?」
自分でも驚くほど冷たく低い声が出て、自身の隣を睨むように見据えると、予想以上の俺の剣幕に青ざめた顔をして為す術もなく立ち竦む朱里の姿があった。
「っ…あのっ、信長様、これは…」
「信長殿、朱里殿を責めてはなりません。私が無理を言ったのです。やはりどうしても貴方に一目会いたくて…」
「くっ…何を今さら…会ったところで何も変わらぬというのに…」
腹立たしいのか、哀しいのか…心の中が煩く騒いで落ち着かない。
母という存在は、自分の中では、既にないものと思っている…いや、ないものと思おうとしてきた。
幼い頃、俺は常に母を追い求め、願っていた。
振り向いてほしい、優しく微笑んでほしい、この身に触れてほしい、優しい言葉をかけてほしい…俺を見てほしい。
その願いは、どれ一つとして叶えられることはなかった。
だから俺は諦めたのだ。どれほど願っても手に入らぬものを追い求めるほど、虚しいことはない。ならば、最初から願わねばよい、と。
それを今になって……
「………信長殿。母の身勝手を許して下さい。貴方を傷つけてきたこと、謝って済むことではないのは分かっています。
……それでも、貴方に一目会いたかった。
自分を犠牲にして身を削るようにして生きている貴方が、その生を共に歩みたいと思える方と出会えたと聞いて、本当に嬉しかったのです」
「………………」
「貴方はきっと、私に『捨てられた』『愛されてなかった』と思っているでしょう。思われて当然のことを、私は貴方にしてしまったから………。
でも…これだけは分かってほしい。貴方を思わない日はなかった。貴方が成長する姿を乳母からの文で知り、頭の中で想像する私の吉法師が愛しくて堪らなかった。
何度も文を書こうとしました。こうして何通も書いたけれど……大殿は出すことを許しては下さらなかった」
そう言うと、手元から何通もの古い文の束を差し出す。
受け取ろうとしない俺を見かねて、朱里がそっと手を差し出して、壊れ物を扱うかのように大事そうに文の束を受け取った。