第36章 母というもの
宴がお開きになり、朱里と二人、部屋へと続く廊下を歩いていく。
「信長様、今宵は月が綺麗ですよ。少しお庭を散歩してから、戻りませんか?ほら、虫の声も聞こえる」
宴の席で酒を飲んだせいか、いつもより少し頬を赤く染めた愛らしい姿に、すぐにでも組み敷きたい衝動に駆られる。
伊勢へと旅立ってより連日、朱里への欲が尽きることなく自分でも抑えきれないほどに求めてしまっている。
朱里が目に見えるほど疲労困憊していることにも気付いてはいるが、それでもその身に触れたくて堪らない。
(これではまるで初めて女を知った若人のようではないか。
女に不自由などしたことなかったこの俺が、よもやこのように自制できなくなるとはな…)
心の内で苦笑いしながら、繋いだ手をぎゅっと握りしめ、朱里の耳元に顔を寄せて甘く囁く。
「…虫の声もよいが…早く褥で貴様の啼く声が聞きたいのだが?」
分かりやすく顔を更に朱に染めて慌てる様子が、ますます愛らしい。
「っ……やだ…今宵はだめですよ…ゆっくりお休み下さい…」
「くくっ、何度言わせる気だ?俺は貴様を抱かねば、ゆっくり眠れん」
耳朶から首筋へと滑らすように舌を這わせていき、最後に、ぽってりとした柔らかい唇を食むように口づける。
「ん……もぅ……」
燃え上がった身体の奥の熱を、今すぐ解放したい気持ちでいっぱいだったが、朱里に『庭に行きたい』と再度請われて、渋々歩き出す。
本丸御殿の庭には池が設えられてあり、その周りを散策しながら歩いていくと、前方に小さな東屋が見えてきた。
今宵は月が明るく煌々と辺りを照らしており、灯りがなくとも充分だった。
東屋に近づいていくと、中で人影が身動きするのが見えて、予想外のことにギクリとなり、足が止まった。
人影はゆっくりとこちらを振り向いて………
「っ…貴女は…」
「……信長殿…あぁ…」
目の前の女は感極まったように瞳を潤ませ、微笑みを浮かべて俺を見つめてくる。
少し老いたか…しかしなおその美貌は変わらず、美しい俺の母。
俺の記憶の中の母は、冷たい拒絶の表情を浮かべる女であり、このような優しい微笑みを浮かべる女ではない。