第36章 母というもの
「……信長様?」
そっと名を呼んで、握る手に力を籠める。
信長様は我に返ったように、目を瞬いてから、ふっと小さく息を吐いた。
「…江は、伯父上のどこが好きなの?」
「戦にお強いところ!江や母上や姉上を守って下さいました。それから、お優しいところ。江のお話も全部聞いて下さるし、いつも優しくしてくださいます」
「ふふ…そうね。江にとって伯父上はお強くてお優しい方……でも世間では『鬼』だ『魔王』だと恐れられているのを、江は知っている?貴女の父上も、信長殿と戦をして亡くなりました。
…信長殿は、自らの大望を叶えるため、人の恨みや憎しみもその身に一身に受けておられる…朱里殿はそんな信長殿の全てを受け入れ、愛して下さった。
私は、二人が夫婦になって本当に良かったと思っているのですよ」
「…おばば様…江は父上のことはよく覚えていません。亡くなった時、まだ赤子だったから…。江にとっては、伯父上が父上以上に大切な方なのです。
……伯父上の妻になれば、ずっと一緒にいられると思って……」
「江……貴女にもいつか分かる時が来ます。
真に愛する方が、きっと現れますよ。
今は……貴女の大好きな伯父上が笑顔でいられるように、その幸せを願って差し上げましょう」
「……………はい」
襖の向こうの会話をじっと聞いていた信長様は、閉じていた目蓋をゆっくり開いて、
「………朱里、行くぞ」
私を促し、部屋の前から歩き出す。
信長様が今、何を思っておられるのか、義母上様と江姫の話をどのような気持ちでお聞きになったのか、そのお顔を見ただけでは、私には到底窺い知れぬことだった。