第36章 母というもの
「っ、義母上様…」
「そんなあの子が、自ら望んで正室を迎えたと聞いて驚きました。朱里殿は関東の北条家の姫君だそうですね。最初は政略で婚姻を結んだのかと思いました。あの子は、天下布武の為ならば己がどんな犠牲を払っても平気な顔をしていますから」
痛ましそうに眉を顰めて目を伏せる義母上様。
「されど、風の噂やお市から聞く話では、どうやら政略ではなく、貴女を本気で愛しているようだ、と。あの子にとって益のあるはずの関白様との縁組の話も、貴女を正室に迎えるために断った、とも聞きました。
驚きました。あの子が本気で人を愛する日が来るなど……思ってもみなかった。他人を信じず、大望のためなら家族をも犠牲にしてきたあの子が、一人の女子を大事にするなど……。
………あの子の心を凍らせて、人を信じられぬようにしてしまったのは、全て私のせいなのです……」
ほぅ、っと一つ深い溜め息を吐いて、義母上様は言葉を途切らせた。
「…朱里殿は、信長殿の子供の頃のことは聞いておられますか?」
「っ、はいっ…伊勢への道中に少し…信長様が話して下さいました」
「っ、そう…そんなことも話せるほど、貴女を信頼してるのね。
私はあの子が産まれてから今日まで、母らしいことは何もしてやれなかった。
大殿、信秀様は早くから信長殿の資質を見抜き、嫡男として厳しく教育されました。文武両面において、それはもう可哀想なぐらいに厳しく……母の私に対しても、あの子に優しく接することを許して下さいませんでした。
僅か二歳で那古野城の城主になってからは、会いに行くことも許されなかった。
私はいつしか、信長殿へかけられなかった愛情を、産まれたばかりの弟、信勝に注ぐようになってしまった。
あの子はきっと、私に捨てられたと思ったでしょうね…
大殿の葬儀で久方ぶりに会った信長殿は、大殿の位牌に抹香を投げつけて、私を冷たい氷のような目で見下ろしていました。
その時になって初めて、私はあの子に対して、自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに気が付いたのです」
義母上様の語られる信長様との過去は、信長様から聞かされたものとはまた違っていて……お二人の間に深い溝があることが分かって、辛くて苦しくて胸が締めつけられる思いだった。