第36章 母というもの
置いていかれた私は、呆気に取られて信長様の後ろ姿を見送るしかなく……それを見ていたお市様は、はぁ〜っと大きな溜め息を吐いた。
「兄上は相変わらずですね。
わざわざ伊勢まで来られると言うから、母上に会う気になられたのかと思っていたのですが…。
朱里様、ご案内します。母上は貴女に会うのも楽しみにしてらっしゃるのよ」
信長様は本当に母上様に会わないつもりなんだろうか。
出立前には、『会うかは分からん』なんて言ってたけど、伊勢まで来ておいて、まさか本気で会わないと言い出すとは思わなかった。
母上様……どんな方なんだろう。弟君を殺めた信長様を、まだ恨んでいらっしゃるのだろうか。
信長様を…愛しては下さらないのだろうか。
私は母上様に、信長様の何をお伝えできるだろうか。
答えの出ない問いが頭の中をぐるぐると駆け巡り、母上様の待つ部屋へと向かう私の心は次第に重くなっていった。
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「失礼致します、母上。朱里様をお連れ致しました」
「………お入り」
襖の向こうから、大きくはないがよく通る、落ち着いた大人の女性の声が聞こえてきて、緊張で身体が強張る。
お市様に続いて部屋へ入ると、そこには、信長様に面差しのよく似た中年の尼削ぎ姿の美しい女人がゆったりと脇息に凭れてこちらを見ておられ、瞬間、目が合ってしまった。
ドキドキしながら慌てて目を伏せる。
(信長様に目元がよく似てる…切れ長の美しい目だわ)
『私はこれにて…』と退出されるお市様に御礼を言って、母上様と二人、向かい合う。
「……義母上様、朱里でございます。お会いできて嬉しゅうございます」
「朱里殿、よく来て下さいましたね。文の返事をありがとう。どのような方かと、お会いするのを楽しみにしておりました」
「私も…義母上様はどのような方かと、お会いするのが楽しみでした」
「……嫁も取らず、このままずっと一人でおるつもりかと案じておったのです。あの子は……小さい頃から一人であった故、家族や他人との距離をはかるのが苦手なようです。
親しくなり過ぎた者に裏切られて傷つく、裏切られるのが怖くて人を信じられなくなる………傷つきたくなくて一人でいることを選んでいるようでした」