第35章 伊勢へ
黙ってしまった私を案じるかのように、身体に回された腕に力がこもる。
「貴様が俺の過去を気に病むことはない。
優しい貴様が俺の過去を知れば、悲しむことは分かっていた。
俺自身は、過去を悔やんだことはない。
過去を悔やむことは、奪ってきた数多の命を蔑ろにすることも同然だと思っているからだ」
(信長様は確かに自分のしてきたことを、後悔してはいらっしゃらないのだろう。
………でも、たとえ後悔はしていなかったとしても、何も感じず、何も思わずに、なされたはずはないと思う。
信長様は、自ら傷つかぬように、その心を凍らせて、ただ前だけを向いて、やるべきことをなしてこられたのだ)
「朱里……俺は天下布武のために、多くの犠牲を払ってきた。
その俺が、安らぎやあたたかな温もりなど、生涯得られるものではないと思っていた。
だが……貴様と出逢って、知った。
愛する者の存在が、己にとってこれほど大きなものだということを。
俺は、貴様を妻にしたいと望んだ。初めて自分から欲しいと願った。
俺は……貴様との未来を望んだのだ」
「信長様…」
「過去は変えられぬ。
変えられぬ過去を嘆いても仕方がない。
だが、未来は…貴様との未来は決して手離したりはせぬ」
身体に回された腕は、その言葉どおり、決して離さぬと言わんばかりに強く強く私を抱き寄せた。
(過去は変えられない。
でも……その過去が貴方の心を冷たく凍らせているのなら、私は貴方の心を暖めてあげたい。
貴方がこの先傷つかぬように、その心を守ってあげたい。
貴方は私との未来を望んでくれたから……)
「信長様…私はこの先、何があっても貴方のお傍を離れません。
未来は二人で作っていくものだから………
楽しいことや嬉しいこと、一緒にたくさん感じていきたい。
そうして……最期の時までずっとお傍にいます」
「っ……ああ、この先、貴様が嫌だと言っても離してやらん。
生涯、俺の傍を離れることは許さん」
信長様の胸に凭れながら、いつまでもこの満たされた穏やかな時が続くことを、願わずにはいられなかった。