第35章 伊勢へ
「貴様は周りの者の心を和ませる。
気づいていないかもしれないが……貴様と一緒にいると、いつの間にか皆、笑顔になっている」
優しい声音で言いながら、手の甲で頬に触れてくれる。
「俺の子供の頃の話か……
俺が『うつけ』と呼ばれていたのは、知っているだろう?
毎日、派手で目立つ格好をして、悪ガキどもと山を駆け回ったり、川に飛び込んだりして国中を歩き回っていたな。
尾張の国を、民を、知りたかったのだ。
自分の目で見て自分が信じたものだけが全てだった。
俺には今のように信頼できる家臣もいなかったから、俺に従う者も自ら探すしかなかったしな」
「信長様………」
「俺は十三歳の時、初めて人を殺めた。相手は…兄から放たれた刺客だ」
「っつ…………」
「兄は庶子だったから、嫡子である俺が家督を継ぐものと思われていたんだが…俺を殺めてまで織田の家督が欲しかったらしい。
俺をうつけと侮って寝所に刺客を送ってきおった…全員返り討ちにしてやったがな」
さらりと何でもなかったことのように、信長様は淡々と語っている。
きっと仰るとおり、寸分の隙もなく鮮やかに刺客と対峙されたのだろう。
でも心の内は………苦しくなかったはずがない…悲しくなかったはずはない。
「この乱世では家督争いはよくあることだ。親兄弟が日常的に殺しあう世の中だ。
その数年後には、血の繋がった弟でさえも、俺に謀叛を起こした」
「っ、それって………」
「弟の信勝は、父亡き後、母上やお市たち弟妹と共に末森城に入っていたんだが……うつけの俺には織田は任せられぬ、と挙兵しおった。
一度目は、母上が涙ながらに助命されたゆえ、許した。
二度目は、計画を事前に知った俺が病と称して弟を呼び出し、その命を断った。
殺さねば、殺される。情は己の身を滅ぼす。
弟を手にかけて、織田を一つにまとめた時、俺は誓ったのだ。
くだらん争いを終わらせ、誰もが穏やかに暮らせる世を作る、と」
感情を表に出すことなく、起きた出来事を淡々と告げるかの如く話される信長様の過去。
その口調とは反対に、心の内は悲しみが溢れているように感じられて……何と声をかけていいのか分からなくなった。