第34章 すれ違い
その夜、信長の決裁を仰がねばならない急な事案が発生したために、秀吉は天主を訪れていた。
「………では、この通り進めます、御館様」
「ああ、また詳細が分かり次第報告せよ。
それと……尾張、美濃への視察の件だが、少し日程を遅らせよ。
……伊勢へは断りの文を出したか?」
「あっ、いえ、まだ……」
「早急に出しておけ」
「………よろしいのですか?」
「秀吉、同じ事を何度も言わせるな。
………俺は母に会うつもりはない」
「っ、畏まりました。
それと、あの、御館様…最近、朱里は天主におらぬようですが……何かあったのですか?」
朱里の名を聞いて、信長の表情が暗く沈むのを、秀吉は意外な気持ちで見ていた。
(御館様がこのように感情を見せられるなど、今までになかったことだ。
御館様にとって朱里がいかに大きな存在であるのか、思い知らされる)
「……喧嘩、ですか?
城の者たちも、お二人のことを心配しております」
眉間に深い皺を寄せ目蓋を閉じると、ゆっくりと息を吐きながら、信長は重い口を開いた。
「俺は朱里を…傷付けたかもしれない。
母のことで…苛立ちを朱里にぶつけてしまった。
……あの日…弟を手にかけたことを母に激しく詰られた、あの日から、俺は母に対して一切の感情を持つことを止めたのだ。
どんなに望んでも手に入らぬものを追い求めるのは、虚しいことだ。
……なのに、今更『会いたい』などと言って俺の心を掻き乱す母に対して苛立ちを隠せなかったのだ」
「御館様…」
「その行き場のない苛立ちを朱里にぶつけて傷つけてしまった。
……どのような時も守る、と誓ったばかりなのに、な…」
「……それで、朱里を遠ざけておられるのですか?」
(大事な存在だから、これ以上傷つけたくなくて遠ざける……御館様の愛はなんと不器用なのだ…)