第115章 紀州動乱
光秀が率いる明智軍一千の兵は粛々と京を目指していた。
「明智殿、もっと急げぬのか?京と大坂は目と鼻の先、早駆けすればすぐに着く距離や。こうしている間にも主上の御身が危険に晒されておるのですぞ?一刻も早う京へ行き、毛利を蹴散らして下され!」
「まぁ、落ち着かれよ、関白殿。仰る通り京と大坂は目と鼻の先。早駆けなどせずともすぐに着きましょう。兵の体力をいたずらに減じるのは愚将のすること。戦のことは我ら武士にお任せ下され」
「そんな悠長なことを…」
焦りの色を滲ませる前久に対して、光秀はどこまでも飄々とした態度を崩さない。
慌ただしく戦支度を整えて出陣したにも関わらず、統率の取れた明智の兵には些かの乱れもなかった。
「奥方様、お疲れではございませぬか?」
光秀の隣で馬を歩ませる朱里に後ろに控えていた久兵衛が遠慮がちに声を掛ける。
「大丈夫です。ありがとうございます、久兵衛さん」
朱里は馬の歩みを止めぬまま、後ろを振り返って微笑んで見せた。
身に付けた鎧の緒が風に揺れてかちゃりと鳴った。
絹の小袖の上に重ねた銅丸は男のそれよりも薄く、しかし確かな重みを持って胸に沿っており、朱に塗られた革と黒鉄の縁が華やかさと冷厳さを同時に纏わせていた。
袖口から覗く白い手首は細く、強く掴めば折れてしまいそうなほど華奢で頼りなかったが、手綱を握る手は決意を秘めてしっかりとしていた。
艶やかな絹糸のように滑らかな黒髪を高く結い上げて、一片の飾りなく額に白い鉢巻のみを巻いた姿は、凛と咲く花のような美しさを醸し出している。
緊張しているのか、色白な顔が一段と色を失って透き通るように白くなり、唇に施した紅の色が際立って見えた。
「無理はするな。京へ着く前にお前に倒れられては元も子もないからな」
「そ、そんなにひ弱じゃないですよ!」
光秀の揶揄いにキッと眉根を吊り上げて抗議する姿はどこか子供っぽいような可愛らしさも感じられて、見た目の凛とした美しさとの対比に周りの者は目を奪われる。
戦の場に向かう兵達の張り詰めた空気感も朱里がこの場にいることで幾分柔らかなものになっているようだ。
(御館様が城の奥に大事に隠しておきたいと思われるのも道理だな)