第115章 紀州動乱
「夫が不在の間、城を守るのは妻の務めだもの。一人で不安がってばかりいられないわ。信長様は命をかけて戦に臨まれるのだから、私もしっかりしないと。この城を、皆を守るのが私のなすべきことよ」
「姫様…」
穏やかな笑みを浮かべ頼もしく言い切ってみせた朱里を千代は眩しそうに見つめる。
千代は朱里が幼い頃から侍女として片時も離れることなく傍に仕えてきた。
朱里が偶然にも信長の目に止まり、生まれ育った小田原の地を慌ただしく離れることになった折も、共について行くことに一切の迷いはなかった。
信長を愛し、愛されて、時に悩んだり苦しんだりしながらも織田軍の武将達にも受け入れられて満ち足りた日々を送る朱里を母のような姉のような気持ちで傍でずっと見守ってきた。それはこれからも変わることなく、朱里の傍で共に生きていくのが自分の行く末だと思っている。
天下人の妻となり、二人の子の母となって、家臣や侍女達から『奥方様』と慕われるようになっても、千代にとっての朱里はいつまでも天真爛漫で愛らしい『姫様』だった。
責任感が強く、時に頑張り過ぎて無理をしてしまう姫様を自分が守らねばと思っていたのだが…
「姫様はいつの間にか立派な織田家の奥方様になられたのですね」
「ふふ…千代ったら…私が信長様の妻になって何年経ったと思ってるの?」
しみじみと感慨深げに言う千代に、朱里は屈託なく笑ってみせる。
「信長様にはいつも守られてばかりだもの。私も信長様の大切なものを守らなくちゃ。本当は私に戦場で共に戦えるような勇ましさがあればよかったのだけど」
「そのようなことは…」
女だてらに武芸を嗜むとはいえ、形ばかりで実際の戦に出たこともない。
傷の手当てや薬作りの知識があるとはいえ、混乱した戦場ではどれほどのことができるのか分からない。
足手まといになるのは目に見えているし、戦に恐怖心がないわけでもなかった。
こんな自分が「戦場でもお傍にいたい」などと願うのはおこがましいと思うから、これまで思いを口にすることはなかったが、信長様が戦に向かわれるたびに何もできない自分が歯痒かった。
(出陣される信長様を見送るのは辛い。無事に帰られることを祈りながらただ待つだけの時間も苦しい。離れている時間は寝ても覚めても心配ばかりで…本当にこの身を切り裂かれるように切なくなる。それでも…愛する人の枷にはなりたくない)
