第115章 紀州動乱
人工的に氷を作る技術がなかったこの時代、夏場の氷は大変貴重なものであった。
冬場にできた天然の氷は洞窟や地面に掘った穴に茅葺などの小屋を建て溶けないように保冷する。これを『氷室』といい、氷を保存する氷室の中は地下水の気化熱によって外気より冷涼であるため、涼しい山中などではこの方法で夏まで氷を保存することができる。このように限られた天然のものを保管するしかない時代、夏場の氷は貴重品であり、長らく朝廷や将軍家など一部の権力者のものであった。
信長のような力のある大名では独自に氷室を持つ者もいたが、それでも氷が限りのある貴重なものだということに変わりはなく、容易に手に入るものではなかった。
「つまらぬ遠慮などせずともよい」
わざとらしく扇子をパタパタと扇いでいた手を信長様に無理矢理止められる。
「遠慮してるわけでは…本当に…熱はないので冷やさなくても大丈夫ですよ?それに暑気あたりは病ではありませんし」
「何を言う、毎年酷く辛そうにしているではないか。病でなくて何だというのだ」
「うっ…」
そう言われると胸が痛い。情けないことに毎年夏場は暑気あたりのせいで思うように動けずにいるのだ。
「夜は眠れているのか?」
最近は信長様が昼夜お忙しいこともあって、独寝(ひとりね)が続いていたのだが、実は夜もあまり眠れていなかった。
(夜眠れないのは暑さのせいばかりではないのだけど…)
先日見た夢があまりにも夢見が悪くて、それ以降その夢が気になってしまい、なかなか寝付けないのだった。
(夢だけど妙に現実感があって忘れようと思っても気になってしまう。それでなくても暑さで身体が弱ってるのに…気が滅入ることばかりだわ。でも信長様には心配かけられないから黙っていなくては)
「大丈夫ですよ。夜は暑さで寝付けないこともありますけど、その分昼間に休ませてもらってますから。信長様のほうこそ、きちんと休まれてますか?」
政を優先し、食事や睡眠を二の次にされることも多い信長様だ。
心身ともに強いお方であると分かってはいるが、妻としてはやはり心配だった。
「俺の心配はいらん」
「でも……」
「貴様は人の心配より自分の心配を致せ。そうだな、今日はもう休むとよい」
「ええっ…で、でも…まだ八つ刻ですよ?」
(いくら何でも早過ぎるっ!)
「何刻だろうが構わん」