第115章 紀州動乱
主従の間に重苦しい沈黙が流れたその時、障子の向こうから微かな衣擦れの音がした。
「……信長様?」
「朱里か?入るがよい」
遠慮がちに呼びかける愛らしい声に、険しかった信長の表情も緩む。
そっと障子が開き、茶碗が乗った盆を持った朱里が入ってくる。
信長の前に広げられた無数の書簡にチラリと視線を送りながらも、朱里はふわっと柔らかく微笑んで見せる。
「お茶をお持ちしましたので、休憩にしませんか?」
「ああ、丁度一区切りついたところだ。今日の菓子は何だ?」
朱里は大名の正室には珍しく自ら厨に入り、女中達とともに食事の支度を手伝ったり、趣味で菓子作りなどもしていた。
信長が甘いものを好むこともあり、異国の商人や宣教師たちに教えを乞うて様々な南蛮菓子なども手作りしている。
信長が城にいる時は朱里が休憩時間に茶を淹れてくれるのが大坂城での日常であった。
「ふふ…今日は葛切りです。暑い時期なのでさっぱりとした口当たりの良いものがいいかなと思って。黒蜜をたっぷりかけたので甘くて美味しいですよ」
葛切りは葛粉に砂糖や水を加えて煮詰め、型に入れて冷やし固めた後に細長く麺状に切り分けたものだ。そのまま食べてもいいが、黒蜜をかけたり、餡子を載せたりして食べると甘くて美味しい。ひんやりとした夏らしい菓子だった。
また、葛粉は非常に栄養価が高く、身体に良い成分が多数含まれていることが知られており、病の時には葛湯などにして飲まれたりもしていた。
透明な葛切りは玻璃の器に入っていて、見た目も涼しげであった。とろりとした艶のある黒蜜の甘い香りときな粉の香ばしい匂いが食欲を唆る。
「葛切りか…それは良いな」
朱里の手から受け取った玻璃の器はひんやりとしていて、夏の暑さを忘れさせてくれる。
口に入れた葛切りはツルツル、モチっとした食感が楽しく、コクのある黒蜜の上品な甘さが癖になる。
喉ごしの良さと甘過ぎないすっきりした味に次々と箸が進んだ。
(気に入って下さったみたいでよかった。暑い時にはやっぱり涼しげな甘味がいいよね。甘いものを召し上がって少しは気を休めて下さるといいんだけど…)
連日の厳しい暑さが続く中、ここ最近の信長は明け方から夜更けまで多忙を極めており、ゆっくりと食事を摂る間もないようだったのだ。