第115章 紀州動乱
「今が幸せだと思うなら、それを決して手放さぬことだ。貴様は貴様の為すべきことを為せ。進むべき道を見誤るな」
「っ…はい…」
信長は蘭丸の淹れた茶をグイッと一息で飲み干すと、ふっ…と柔らかく口元を緩めた。
茶は熱過ぎず温過ぎず、せっかちな信長が常に飲みやすい具合にと小姓だった頃の蘭丸はいつも気配りを怠らなかった。
蘭丸は、主(あるじ)の意図を汲み、何事も先んじて気を配り、手配をするような優秀な小姓だった。
信長は自分にとって益があると判断すれば優秀な者ならば生まれや身分に拘らずにどんな者でも取り立ててきた。
蘭丸を小姓として常に傍近くに置いていたのは、彼の才を見抜いていたからだった。
(時折見せる憂いを帯びた様子から、何か訳があるのやも知れぬと薄々感じてはいた。さすがの俺もよもや顕如の間者であったとは思わなかったが。人の心は容易には計れぬ。だが、少なくとも小姓としての蘭丸の忠義は真のものであった)
それ故に裏切りを咎めることなく、紀州へ退去する顕如の後を追って姿を消した蘭丸を信長が追求することはなかった。
それから暫くは互いに黙ったまま庭の木々の緑を見るともなく見ていた。聞きたい事は色々あったが、上手く言葉にできないままに時だけが過ぎていった。
飲み干した茶碗を手持ち無沙汰に手の内で弄んでいた信長であったが、徐ろに立ち上がる。
「信長様?」
「今日はこれで退散致そう。これ以上待っても顕如は来ぬであろう」
「っ…それは…」
信長がどのような意図を持って顕如を訪ねてきたのか、確かなことは分からない。
和睦して年月を経たとはいえ、顕如が親しく出迎えてくれるなどとは信長も思っていないだろうと思うと、蘭丸は益々信長の考えていることが分からなかった。
(何か不穏なことが起こらなければいいけど…)
特に何も言い残すことなく、思いの外あっさりと信長は帰って行った。
後に残された蘭丸は、信長の飲み干した茶碗をぼんやりと見つめたままで暫くその場から動くことができなかった。