第115章 紀州動乱
(信長様は未だ顕如様への警戒を解いてはいない)
和睦後、織田が本願寺に表立って干渉することはなかったが、一揆勢が再び蜂起することがないよう、顕如の動向を密かに監視していることは明らかだった。
(顕如様は織田へ再び刃を向けられるつもりなのだろうか。今現在、日ノ本で信長様に敵対する勢力はないはずだけど、もしどこからか誘いがあったら…顕如様は再び立たれるだろうか?亡くなった同胞たちの復讐を果たすために…)
『大事な場所も掛け替えのない大切な仲間も、私は全て失った。あの男のせいで』
抑えきれない悲しみと憤りを帯びた顕如の顔には、信長との戦いで負った消えることのない深い傷痕が残っていた。
(この地で祈りの日々を送りながらも、顕如様の中の悲しみや恨みの念は消えることがないのかもしれない。もし顕如様が再び戦いの中に身を投じる決断をされたら…俺は顕如様を止められるだろうか)
「…蘭丸」
「えっ…あっ…」
深く思い悩み、俯いていた蘭丸は己の名を呼ぶ声にハッとして顔を上げた。
そこには、心の奥深くまで見透かすように真っ直ぐに見つめる深紅の瞳があった。
信長は何も言葉を発しなかった。ただ、蘭丸を射抜くように真っ直ぐに見つめるだけだった。
(あの日もそうだった。俺が本願寺の側の間者で、ずっと信長様を裏切っていたって分かった時も…信長様は何も仰らなかった。責めることも許すこともなく…全てを見透かすように、ただ真っ直ぐに俺の目を見つめられた)
「信長様…あの、俺…貴方を裏切って…ずっと黙ってて…っ、すみませんでした!」
かつての主君のその射抜くような視線を受けて自責の念に堪え兼ねた蘭丸は、長らく胸の内に秘めたままでいた想いを吐き出す。謝罪の言葉を述べて額を畳に擦り付けんばかりに平伏した。
「過ぎたことだ。謝罪などいらん」
「っ…でも…」
「……蘭丸。貴様は今、幸せか?」
「えっ…あ…は、はい…」
『幸せ』などという言葉が信長の口から出るとは思っても見ず、戸惑いながらも蘭丸は頷く。
(心を同じくする同胞たちと一緒に顕如様のお傍にいられる。謀事や争いから遠ざかった穏やかな日々は幸せと言えるのだろう)
「ならばよい。貴様が顕如の忠実な間者であったことも俺の優秀な小姓であったことも事実だ。過去は変えられん。過ぎたことを悔やむなど益のないことだ」
「っ……」