第115章 紀州動乱
「お前は……」
眩いばかりの陽光を背にした万物に臆する事のない傲岸不遜な男のかつてと変わらぬ姿を、顕如は険しい顔で見据える。
柔らかな燭台の灯りに照らされた厳粛な祈りの場に、一転して寒々しく凍えるような冷気が過ぎった。
「…何の用だ?お前と再び相見えることなどないと思っていたが」
数年ぶりに見る男の顔を顕如は忌々しげに睨みつけ、吐き捨てるように言う。
それは、法主として己を慕う門徒たちに対する時の慈愛に満ちた労り溢れる態度とは真逆の刺々しさだった。
「はっ…随分と素気(すげ)ない言い様だな。このような辺鄙な地まで、この俺がわざわざ会いに来てやったというのに」
「白々しい。私はお前に用などない。早々に立ち去れ、信長」
顕如は冷たく言い放ち、正面の御本尊に向き直ると雑念の一切を振り払うかのように再び静かに読経を始めた。
常と変わらぬ静かな声音とは裏腹に、その心の内は酷く乱れさざめいていた。
(今になって信長が自ら訪ねて来るなど、どのような意図があってのことか…我らがこの地に退去してから今日までそのようなことは一度もなかった。未だ我らに織田の監視の目があることは承知していたが…)
長きに渡る対立の後、織田とは和睦し本願寺は大坂の地を退いた。和睦した後も、天下統一を押し進める織田に粘り強く抵抗する一向一揆勢が蜂起することはあったが、顕如が指示したものではなかった。
顕如はこの地で残った門徒たちと共に御仏に祈りを捧げ、死んでいった者たちの来世での幸福と現世を生きる者たちの平穏無事を願う日々を送っていた。
無惨な最期を遂げた同胞(はらから)達の怨嗟の声は今も耳に焼き付いて離れず、信長への恨みが消えたわけではなかったが……
「…………」
それ以上の問いかけを拒絶するかのような顕如の背を一瞥した信長は、ふっ…と吐息を吐き出してから無言で踵を返す。
「の、信長様っ…?」
「蘭丸、案内しろ」
師の背中とかつての主君の顔を見比べて戸惑う蘭丸を冷めた目で見ながら信長は感情の読めぬ声で命じる。
乱れなく静かに続く顕如の読経の声をどこか遠くに聞きながら、信長は心の内で『南無阿弥陀仏』の六字名号をただひたすら呪文のように唱える無数の門徒たちが狂ったように押し寄せて来る地獄のような光景を思い出していた。