第115章 紀州動乱
戦のない世を
生まれや身分に関係なく、誰もが思うままに生きられる世へ
日ノ本を海の向こうの国々と対等に渡り合える豊かな国にする。
(ようやくここまで来たのだ。誰であろうと邪魔はさせん)
「明日は一気に叩く。刃向かう者は容赦なく蹴散らせ。ゆめゆめ気を緩めるな」
「はっ!承知しました」
目の前の主君に深く首を垂れてから踵を返し、秀吉は素早く本陣を離れる。
その時、幔幕が捲れ上がり、ざぁっと吹き込んできた一陣の風が信長の髪を乱す。
血と煙の匂いを含んだ風はどことなく湿り気を帯びていて、信長は不快げに顔を顰めた。
空を見上げると、風に押された黒雲が流れるように近付いていた。
「ひと雨来るか…」
鉄砲や大筒といった火器を主戦力とする戦では、勝敗を天候に左右されやすい。雨天に対する備えはしてあるが、激しく天候が崩れれば武器が本来の威力を発揮できず、予期せぬ事態も発生しやすい。更には雨の中での戦いでは兵達の士気も下がり、常よりも被害が増えやすいのだった。
(たとえ嵐が来ようとも、進むべき道は一つ。道を遮るものは一つ残らず排除するのみだ。多くの血が流れ、数多の命が失われようとも)
死屍累々堆く積み上げられた屍を何度も乗り越えてきた。痛みも躊躇いも感じる暇はなかった。
戦のない世を望みながら戦をする矛盾に時に葛藤を覚えながらも、心を凍らせ一切の感情に蓋をして目の前の敵をただ薙ぎ払い、前へ進むほかに道はなかった。
己の選んだ道行きに後悔はしていない。
近づく決戦の時に思いを新たにするかのように、信長は固く拳を握り締める。
この世に生を受けてから今日まで多くの命を奪ってきたこの手は深く血に染まり、忌まわしき業は未来永劫消えることはない。
それが己の選んだ定めだ。何を恐れることがあろうか、そう思ってきた。人を愛することを知り、この手で守りたいと願う唯一無二の存在を得るまでは。
(朱里、此度も貴様は血に塗れたこの手が清らかな貴様の身に触れることを許してくれるだろうか。俺の全てを変わらずに受け入れてくれるだろうか。この世に恐れるものなどなかった俺が、今はただ貴様を失うことだけが心底恐ろしいのだ)