第115章 紀州動乱
明け方の空気に少しばかりの涼しさを感じるようになった夏の朝、重厚で落ち着いた読経の声が静かな本堂に響いていた。
御仏に手を合わせ、無心に祈りを捧げる。儚くも喪われた数多の命に想いを馳せ、残された者達の平穏を願いながら、男はひたすらに経を唱えていた。
自分を慕い、真っ直ぐに教えを信じ、只々御仏の加護を求めて死んでいった同胞(はらから)への償いともいえる祈りを、男はこの地へ移ってからも日々欠かすことはなかった。
「失礼します、顕如様」
読経が終わる頃合いを見計らったかのように、本堂の入口に音もなく人影が現れる。
「蘭丸か…どうかしたのか?」
振り向いて声の主へ視線を向ける男の表情は、柔らかく慈愛に満ちていた。
「顕如様、あの…」
蘭丸と呼ばれた青年は、師から邪気のない穏やかな微笑みを向けられて戸惑ったように言葉を濁す。
血生臭い戦いの続く悲しみと苦悩に満ち満ちた日々から解放された師にようやく訪れた穏やかな日常を壊してしまうかもしれない…そう思うと声を掛けたことが酷く悔やまれた。
「蘭丸…?」
いつもの天真爛漫な笑顔が消え、迷うように視線を逸らせたまま本堂の入口に立ち竦む蘭丸を訝しく思った顕如は、案じるようにその名を呼ぶ。
「あ、あの…実は…その、…様が、顕如様を訪ねて…」
「ん?私を訪ねて…?どなたかお客人か?」
ボソボソと歯切れ悪く言う蘭丸の言葉を上手く聞き取れなかった顕如が、不審げに尋ね返したその時だった。
「久しいな、顕如」
入口に立つ蘭丸の背後に長身の人影が現れて、薄く影を落とした。
陽の光を背にしたその人物の顔は陰となってはっきりとはしなかったが、低く重厚なその声に顕如は聞き覚えがあった。
いや、忘れたくても忘れられないと言うべきだろうか。
幾人もの同胞の死を目の当たりにした、まるで地獄絵図のような戦場で聞いたその声を……