第115章 紀州動乱
紀伊国は京に近く、古来から戦乱の影響を受けやすかったことに加え、守護職の支配力が比較的強くなかったこともあり、民衆が独自に力を持ち、「惣」による合議支配が発達したと言われている。彼らは平時は農作業や漁猟に従事していたが、合戦が起こると団結して戦に出た。
雑賀衆は紀ノ川河口付近を抑えていたことから、海運や貿易にも携わっており、水軍も擁していた。やがて鉄砲の製造法が伝来すると雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れた。鉄砲や火薬の原料となる硝石は海運、貿易に長けた雑賀衆にとって容易に手に入れることが可能だった。
雑賀衆は大量に鉄砲を所持して優れた射手を養成するとともに、火器を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長していった。
雑賀の民達は自らの住まう地を守るために武器を取って戦い、やがては鉄砲技術の優れた傭兵として雇われて畿内各地の戦へも参戦するようになったのである。
雑賀衆と織田軍との対立は、信長が足利義昭を奉じて上洛して後のことであった。
上洛した信長は、日ノ本各地で大名に対立していた一向一揆の総本山である大坂本願寺に対して、本山を明け渡すよう要求した。信長の目指す天下布武、中央集権的な全国支配にとって、民衆の間に深く入り込み、時に政に介入しようとする宗教勢力は厄介な存在であった。
更に大坂の地は京にも近く、異国との交易の場としても適していたため、信長はこの地を日ノ本の統治の重要な拠点とするつもりであったのだ。
だが、当時の法主であった顕如は信長の要求を拒否し、交渉は決裂した。これにより信長と本願寺との長きに亘る石山合戦が始まったのである。
この戦いで本願寺を軍事的に支援したのが雑賀衆である。
雑賀衆が本願寺に協力し、信長に敵対した理由は雑賀衆のなかに本願寺の門徒が多かったからであるが、必ずしも純粋な信仰心ゆえだけであったとはいえない。当時、急速に力を増し、足利将軍に代わって実質的に政の実権を握っていた信長に対して、雑賀衆は自らの自治権が奪われることを恐れたのだ。
大坂本願寺に入った雑賀衆は、攻め寄せる織田軍を天王寺砦の攻防などで撃退、第一次木津川口の海戦では、毛利家の村上水軍に協力して織田方の九鬼水軍を壊滅させ、本願寺に兵糧を搬入させることに成功する。