第114章 夏のひととき
目の前の小さな命が途轍もなく尊いものに思えて、胸が熱くなる。
そうしている間にもセミの羽はゆっくりと水平に開いていく。
透き通るような美しい青緑色の羽は見たこともないぐらいに神秘的だった。羽は触れれば儚く壊れてしまいそうな薄さだが、薄い翡翠色のくっきりとした翅脈(しみゃく)が浮かんでいる。
セミの羽はこの翅脈を上から下へ体液が流れ込むことによって少しずつ開いていくのだった。
「綺麗ですね。こんなに美しいものが見られるなんて…」
ほぅ…と溜め息を吐き、セミの羽の宝石の如き美しさにうっとりと見惚れる朱里を横目に見ながら、信長は吉法師の様子を窺う。
常ならば幼な子はそろそろ眠くなる時間であったが、今宵はどうであろうか?最後まで起きていられるだろうか、と案じながら……
「……吉法師、眠いか?」
深紅の瞳を懸命に見開きながらも、絶え間なく襲ってくる眠気には抗えず、吉法師はゆらゆらと小さな身体を揺らしていた。
半分眠っているような感じで、父に呼びかけられてもすぐには反応しなかった。
「………きち、ねむくない。せみさん、みる」
ゴシゴシと目を擦り、眠くないと言ってはいるが、重い目蓋を持ち上げるのに四苦八苦しているのは誰が見ても明らかだった。
今日は水遊びもして疲れているだろうから、この様子では横になったらすぐ寝てしまうだろうと思われた。
「吉法師、もうねんねしょうか?おいで」
「やっ!まだねない。もっとみる!せみさんもねんね、まだしてない」
吉法師は、とろんと眠そうな目をしながらもまだ寝ないと頑なに言い張り、母からの抱っこの誘いにも珍しく首を振る。
余程セミの様子が気になるのか、話している間もセミから目を離さそうとはしなかった。
「吉法師、セミは羽を乾かした後ここで一晩休み、朝になってから外へ飛び立つのだ。夜のうちにいなくなることはない。朝になったら父が必ず起こしてやるから貴様も今宵はもう寝るがよい」
「セミさんもねんね、する?」
「ああ、起きたら立派なセミになっておるぞ」
「あさになったら、またみられる?」
「父は嘘は言わん」
「………………」
父の話に納得したのか、はたまた眠気に抗えなかったのか…吉法師は暫し押し黙った後、母の腕の中へとその小さな身体を委ねていったのだった。