第114章 夏のひととき
驚いた様子の吉法師の視線の先へ目を向けると、柱にしがみ付いたセミの子の背の部分が割れ始めており、白っぽくなっているのが見えた。
「始まったな」
信長が隣で一緒に覗き込みながら言う。
「ちち、セミさんでてくる?」
「ああ、目を離さずよく見ておれ」
皆が注目する中、背中の割れが少しずつ開いていき、セミは小刻みに何度も体を波打たせながらゆっくりと外へ出ようとする。
最初に頭の部分が出てくると、その真っ黒いつぶらな瞳に目を奪われる。上半身が出ると、セミはググッと体を後ろへ傾けていった。
「あぁっ…そんなにしたら落ちてしまいませんか??」
小さな足が殻に引っかかっているだけの危うい体勢にハラハラして思わず大きな声が出てしまった。
「落ち着け、朱里。案ずることはない。見よ、セミの体から白い糸のようなものが出て殻の方と繋がっているだろう?あれが命綱のような役割を果たしておるゆえ、落ちる心配はない」
「そうなんですね。はぁ…よかったです」
よく見れば信長の言うようにセミの体は一本の白い糸で抜け殻と繋がっていて、それを支えにして上半身を反らせているようだった。
海老反りのような格好になったセミの体の横側にはクシャクシャとなった縮んだ羽らしきものが見える。
「ちち、このセミさん、しろい。きちのしってるセミさんとちがう…」
いまだ全身が出切っていないセミを黙ってじーっと見ていた吉法師だったが、戸惑ったように信長に訴えかける。
確かに殻を破って姿を現したセミの体は緑がかった白っぽい色をしており、同じように緑がかった薄い羽もまだ開いていないため、昼間に庭で見た茶色いセミとは全く違ったものに見えるのだった。
「まぁ見ておれ。今に吉法師のよく知っておるセミになる。ほら、もう体が全部出たぞ」
納得していない様子の吉法師の頭をポンポンと撫でてやる。
セミは反っていた体を今度はグググッと力強く起こし始め、ついには殻から無事抜け出たのだった。
「わぁ…出てきましたね」
しっかりと抜け殻に足をかけて掴まっているが、その体はまだ何処もかしこも白っぽかったし、羽も縮んだままである。
「ここまで来れば後は羽を伸ばし、乾かすだけだ。外ならば敵に狙われることもあり油断ならんが、部屋の中なら心配はいらん」
「そう考えると、セミは大人になるのも命懸けなのですね」