第114章 夏のひととき
天主に着いた信長は薄暗い室内を見回した後、桔梗の花を生けた花入が置かれた床の間へと足を向けると、手の内に囲っていたセミの子を近くの柱の下へと登らせてやった。
そうしておいて、吉法師に手招きをして傍に来るように言う。
「吉法師、来い」
父に呼ばれた吉法師は、先程までの不満げな顔は何処か遠くにやって、好奇心に満ち溢れた表情でいそいそと信長の傍へと寄って行った。
「むしさん、あるいた!」
自由になったセミの子は様子を窺うように暫くの間じっとしていたが、やがてゆっくりと柱を上へと上がり始めた。
「吉法師、此奴はセミの子だ。よう見ておれ。これは今からセミになるぞ」
「このむしさん…セミさん、なる?」
「えっ…今日これから羽化が始まるんですか!?ここで?嘘っ…こんな部屋の中で…いいんですか?」
よもやここでセミの羽化を見られるとは思ってもみなかった。というか、そもそも羽化する瞬間など見られるとは思ってなかった。いや、そもそもこんな室内で本当に大丈夫なのだろうか。
「明るくし過ぎなければ問題ない。幸い今宵は満月だ。行灯に火を入れずとも障子を開ければ月明かりだけで十分事足りるだろう」
「は、はぁ…そういうものですか…」
「明る過ぎると昼と惑うて上手く羽化が進まぬという。部屋の中でも、薄暗くしてセミの子が掴まれるものを用意してやればよい」
(なるほど、それで柱に登らせて…って、あれ、どんどん上に登っていくけど大丈夫なの?)
見守る傍でセミの子は柱に器用に足を掛けながら上の方へとどんどん登って行く。
このままではてっぺんまで辿り着いてしまうけど…と不安な気持ちで落ち付かなく見守っていたが、やがてその手前でふっとその歩みが止まった。
「急に動かなくなっちゃいましたけど…大丈夫でしょうか?」
歩みが止まった途端、ピクリとも動かなくなったセミの子の様子に不安が募る。
何もかもが初めて見る光景であり、事が上手く進んでいるのか、これからどうなっていくのか、分からないことばかりだった。
「大事ない。セミの羽化はそれなりに時間がかかる。気長に待つとしよう」
せっかちな信長にしては意外な言い様だと思ったが、真剣な表情の吉法師と並んでセミの子の様子を眺めるその顔は無邪気な子供のように好奇心に溢れていた。
(ふふ…信長様も楽しみなんだわ。子供みたいで可愛いな)