第114章 夏のひととき
父に似て怖いもの知らずの吉法師である。
驚きはすぐに好奇心に変わり、キラキラと輝く深紅の瞳が動くセミの子を珍しそうにじっと見つめていた。
触りたくて仕方がないのか、幼な子がうずうずしているのが傍目にも分かり、信長は心の内で密かに笑いを溢す。
「生憎と触るのはダメだ。刺激を与えると死んでしまうかも知れぬからな。触らずに見ておれば、もっと面白いものが見られるぞ」
「むぅ…みるだけ、きち、いやっ…」
むっ、と口の端をひん曲げて不満を露わにした吉法師は父の言い付けに背くようにセミの子に再び手を伸ばす。が、信長はその場にさっと立ち上がってしまい、吉法師の手が届くことはなかった。
「ちち、いじわる!」
「さて、そろそろ戻るぞ」
吉法師のじっとりとした恨めしそうな目線をあっさり無視して、信長はさっさと歩き始める。その手の内にはセミの子が乗ったままだった。
「信長様?えっ、ちょっと待って…それ、どうするんですか??」
「決まっているだろう。連れて帰る」
「ええっ…」
(吉法師には触れるなって言ったのに連れて帰るってどういうこと?セミの寿命は短いから捕まえるなって言ったのは信長様なのに…)
信長の考えていることがさっぱり分からず、その突拍子もない行動に戸惑いながらも、吉法師を抱き上げて急いで後を追った。
信長は庭を抜けて御殿に戻るとそのまま天主へ向かう。朱里も訳が分からぬまま吉法師を抱いて後に続く。
何となく早足になりながら互いに言葉を交わすことなく廊下を進んでいると、次第におかしな気分になってくる。
(何これ…一体何が始まるの??)
「はは、かさかさ、むしさん、きち、さわりたい…」
吉法師はまだ諦め切れぬらしく、先を行く父の背中に向かって手を伸ばしている。
「う〜ん。ごめんね、吉法師。父上には何かお考えがあるみたいだけど…母にもさっぱり分からないの」
「ちち、いじわる」
セミの子を触らせてもらえなかったことを、幼な子は余程根に持っているようだ。いまだにジト目で信長を睨み、口を尖らせている。
本人は至って真面目に憤っているようなのだが、その様子が何とも可愛らしくて母の頬は我知らず緩くなってしまうのだった。
(拗ねてる吉法師は可愛いけど…本当に信長様は何をお考えなのかしら)