第114章 夏のひととき
「信長様、これは…」
「土の中から出てきたばかりのセミの子だ。見よ、地面に穴がいくつもあるだろう?これは全てセミの子が土の中から出た跡だ。辺りが薄闇に包まれるこれぐらいの時間になると、セミの子が地上に上がってきて羽化が始まるのだ」
「そうなんですね。私、初めて見ました。この時間にしか見れぬものなのですか?」
「暗くなってからでないと、鳥などの天敵に襲われやすいからな。雨が降った後などにもよく見られるぞ。地上に出たセミの子はこのような生垣や低い木の枝などに登り、そこで殻を破って出てくるのだ」
「よくご存知なのですね、信長様。あっ、もしかして吉法師に見せたいものって…」
「そうだ。吉法師っ、来い!」
奇しくも吉法師は地面に落ちたセミの抜け殻を熱心に拾い集めているところだった。
触れるとカサカサと音を立てる儚く脆い抜け殻を幼な子の小さな手はむんずと遠慮なく掴む。くしゃりと軽い音を立てて崩れ、無残に形をなくす抜け殻の姿は大人が見れば儚き無常を感じずにはいられないものだが、残酷なほど無邪気な子供にとってはそれもまた好奇心を擽る遊びにすぎないのだ。
簡単に形をなくす抜け殻を小さな手で無心に握り潰していた吉法師だが、父に呼ばれるとすぐに駆けてきた。
「ちち、みて!きち、これ、いっぱいひろった」
ぱっと開いた両の手の中には形の崩れたセミの抜け殻が多数入っていて、吉法師は自慢げに父に披露してみせるのだった。
「おお、たくさん拾ったな。吉法師はこれが何か知っておるか?」
「? かさかさ、おとでる。くしゃ、ってなる。たのしいやつ」
「くくっ…なるほど貴様にとっては、これも玩具の一つと変わらぬか。では吉法師、これはどうだ?おっと、触れてはならんぞ。貴様の持つそれと違って此奴はまだ生きておるからな」
信長が手のひらに乗せていたセミの子を吉法師の目の前に突き出すと、吉法師はそれも同じく抜け殻だと思ったのか、躊躇いもなく手を伸ばそうとした。
信長に制止された吉法師の手が触れる寸前、セミの子は細い手足を動かして歩き出し、驚いた吉法師は慌てて手を引っ込める。
「!?うごいた!」
目を瞠り驚愕の表情を浮かべる幼な子とは反対に、信長はしてやったりの表情で我が子の反応を見て満足そうに笑った。
「ちち、これ、かさかさ、しない?きち、さわりたい」