第114章 夏のひととき
「暗くなれば人と同じようにセミも休むのだ。夜は鳴き声も聞こえぬだろう?」
セミの家族が仲良く川の字に並んで寝ている姿が思いがけず頭に浮かんでしまい、朱里が言葉に詰まっているうちに信長は器用にセミを取って吉法師に見せてやっている。
信長に捕らえられたセミが羽を震わせて身動ぐのを、吉法師は興味津々といった様子で覗き込んでいる。
(確かに昼間は耳が痛くなるぐらい鳴いているけど、暗くなると鳴き声も聞かなくなるな。夜はセミも休んでるのか…知らなかったな)
夏になるといつの間にか聞こえてくるセミの声も、大人になると気に留めることもなくなっていたのだった。
辺りは陽が落ちて次第に薄暗くなりつつある。夏の日は長く、陽が落ちてもすぐに真っ暗になったりせず、緩やかに夜が近づくのだ。
それから暫くの間、吉法師と一緒に木の上を見上げてセミの姿を探したりなどしていたが、ふと気付くといつからそうしていたのか信長が低い生垣の前でしゃがんでいるのが見えた。
(あんな所で何を…?)
「信長様?どうかしましたか?」
傍へ近付いて声を掛けると、振り向いた信長は徐ろに朱里の鼻先に手のひらをグイッと近付け、目の前でぱっと開いて見せた。
「えっ…何…あっ、セミの抜け殻…っつ、ひゃっ…!」
目の前に突き付けられたものが、これまた夏の風物詩とも言えるセミの抜け殻だと認識したその時、それは信長の手の内でカサリと動いた。
「ひっ…ぬ、抜け殻が…う、動いて…ええっ…?」
「当たり前だ。抜け殻ではないからな。まだ生きておる」
「へ?抜け殻…じゃない?」
思わず後退った朱里だが、当然のように答える信長の言い様にまじまじとその『抜け殻』を見た。
それは信長の手のひらの上で小さく身動いだ。よくよく見ると、抜け殻と違って背中が割れておらず、小さな眼は黒々としていた。
(これ、生きてるんだ…抜け殻はよく見かけるけど生きて動いているのを見るのは初めてかも…)
夏になるといつの間にか地面に落ちている大量のセミの抜け殻は子供の頃から見慣れてきたものだったが、実際にこのように動いている姿を見たことはなかった。
抜け殻の数が増えていくのと同時にセミの声が次第に賑やかになっていくのが、遠い昔から記憶に刻まれている夏の風景だった。