第114章 夏のひととき
本丸御殿の庭へ着くと、信長はセミの鳴き声が聞こえている松の木の傍に吉法師を下ろしてやる。
「セミさん、いた!」
木の上を見上げた吉法師はすぐさまセミを見つけたらしく、歓喜の声を上げる。
「ちち、とって!」
吉法師は木の上のセミに小さな手をう〜んっと伸ばすが、当然届くはずもなく…信長に向かってセミを捕まえてくれるよう訴える。
その手には竹で編まれた虫かごが大事そうに握られていた。
「まあ、待て。捕まえてやってもよいが、すぐに離してやれるか?セミを捕えるのは容易いが、此奴らの寿命は短い。狭い虫かごの中に閉じ込めて儚く死なせてしまっては酷というものだ」
「じゅみょ…しぬ…?」
幼い吉法師には信長の言うことは難し過ぎたらしく、不思議そうな顔で首を傾げるばかりだった。
幼い子、ましてやこの世に生を受けて僅か二年に満たない吉法師には死の概念など理解出来ようはずもない。
残酷なようだが、命のあるセミもまた、幼な子にとっては目新しい玩具の一つと変わりないのである。
「信長様、それは吉法師にはまだ少し難しいかと…吉法師、セミさんはお外が好きだからお外を好きなように飛び回りたいの。籠の中は狭いでしょう?吉法師もお部屋よりお外が好きよね?セミさんも一緒だよ」
「……きち、おそとすき。おへやきらい。セミさんもいっしょ?」
「そうだよ。だから籠の中には入れないで、放してあげようね」
「…………」
母の言うことは朧げながら理解できたようだが、それでも僅かばかりの不満をその表情に浮かべて吉法師は口を閉ざした。
「吉法師?」
機嫌を損ねてしまったかと案じながら、黙って俯く吉法師の顔を覗き込もうとしたその時、近くの木から「ジジッ…」と鳴き声を上げてセミが空へと飛び立った。
「あっ…!」
ハッと驚いたように顔を上げた吉法師の目の前で、セミは夕焼けに染まる広い空を高々と飛び去って行った。
「セミさん…おそらとんでった。おうち、かえる?」
「そうだね。もうすぐ夜だからお休みするのかな?吉法師も夜はお部屋でねんねするでしょう?」
「きち、ちちとははとねんねする。セミさんもおんなじ?」
「えっ…ど、どうかなぁ…?」
(セミに家族はいないんじゃ…ううっ、吉法師の目が純粋過ぎて真実を言えない…)
疑うことを知らない澄んだ瞳に見つめられて思わず言葉に詰まってしまった。