第114章 夏のひととき
「何だ貴様ら、こんなところで水遊びか?」
「信長様っ」
「ちち!」
いつの間に来ていたのか、庭へと顔を出した信長は水飛沫を上げて遊ぶ吉法師を見て眩しそうに眸を眇める。
「ちち、おしごとおわった?セミさん、みにいく?」
「ああ。吉法師、いい子にしていたか?母を困らせてはおらんだろうな?」
「きち、いいこ。はは、こまらない」
父の問いをどこまで分かっているのかは怪しいものだが、吉法師はきゅっと唇を引き結び神妙な顔をして試すような信長の視線から目を逸らさない。
「くくっ…では約束どおり庭へ連れて行ってやろう。じき陽も沈むだろう。頃合いだな」
茜色に染まる西の空へチラリと視線をやってから、信長は吉法師に向かって大きく頷いた。
吉法師はぱっと顔を輝かせると、座っていた床机から勢いよく飛び降りて裸足のまま信長のもとへと駆け寄った。
子栗鼠のように素早い子供の動きに大人のこちらは慌ててしまう。
幼な子の関心は水遊びからセミ捕りへと一瞬の内に移り変わったようで、放っておくと今にも一人で駆け出して行ってしまいそうだった。
「吉法師、ちょっと待って。着替えないと裾が濡れてしまっているわ。ほら、足も拭いて…」
「きち、おきがえ、やっ!お庭いく!ちち、はやくはやく!」
水遊びで予想以上にはしゃぎ過ぎたせいで着物の裾が水浸しになっており、ポタポタと雫が足下に絶え間なく垂れ落ちているのが気になって仕方がない母の気持ちにはお構いなしに吉法師の心はもう既に庭へと向かっているようで、信長を早く早くと急かすのだった。
「これぐらい大したことないだろう。動いておれば直に乾く。吉法師、来い」
鷹揚に言って信長は自身の着物が濡れるのも厭わずに、腕の中に勢いよく飛び込んで来た吉法師を易々と抱き上げた。
嬉しそうに甲高い歓声を上げる吉法師を抱いた信長は、戸惑う朱里を後目にさっさと部屋を出て行こうとする。
「朱里、貴様も早く来い。置いて行くぞ」
「ええっ…ま、待って下さい、信長様っ」
訳が分からぬまま、水遊びの始末もそのままに慌てて信長の後を追う。
(もぅ、二人とも言い出したら待ったなしなんだから!こういうとこ、やっぱり親子だなぁ…)