第114章 夏のひととき
信長との約束を守り、吉法師は日暮れまで部屋の中で大人しく遊んでいたが、外に出たくてうずうずしているのは傍目にも明らかだった。
「はは、セミさん、まだかなぁ?ちち、まだこない?」
「う〜ん、まだ…かなぁ?もう少し待ってようね、吉法師」
「……うん。あっ…!」
日が暮れる前からひっきりなしに廊下へ出ては、父が迎えにやって来るのを今か今かと待ち侘びている様子は何とも健気で微笑ましかった。
今もまた聞こえた足音に期待に満ち溢れた顔で急いで廊下を覗き込んだ吉法師であったが、足音の主は待ち人のものではなかったようで…がっかりした様子で戻ってきたのだった。
(これは…吉法師の期待が否応なく高まってしまってる!信長様ったら、吉法師に一体何をお見せになるつもりなのかしら…)
『セミより面白いものを見せる』と言った信長の意図するところが分からず、朱里もまた吉法師とは違う意味でそわそわと落ち着かない気持ちでいた。
陽が西に傾きつつあっても、いまだ部屋の中は蒸し暑く、じっとしていても額にじんわりと汗が滲む。
大人よりも体温も高く代謝も良い子供は室内遊びでもびっしょりと汗を掻いていた。
「吉法師、汗を拭いてあげるからこちらへいらっしゃい」
盥に張った水に手拭いを浸して声を掛けると、吉法師はぱぁっと顔を輝かせる。
「おみず、ちゃぷちゃぷ、する?」
「えっ…わっ!ダメだよ、溢れちゃうから…」
止める間もなく盥の中に小さな手が突っ込まれて、パシャっと水飛沫が跳ね上がった。
「おみず、ちめたい(冷たい)ねぇ」
「こ、こら吉法師!水遊びじゃなくて汗を拭くんだよ…って、わぁっ!ぱちゃぱちゃしちゃダメだよ!」
「むぅ…」
畳の上に水飛沫が盛大に飛び散り始め、慌てて吉法師の手を掴んで止めると、幼な子は不服そうに口を尖らせる。
「おみず、ちゃぷちゃぷしたい」
「う〜ん、仕方ないなぁ」
こう暑いと子供にとって水遊びは魅力的な遊びなのだろう。
恨めしそうな目で盥を見つめる吉法師を見て朱里は小さく溜め息を吐くと、水の入った盥を抱えて庭へと降りた。
「おいで吉法師。おみず、ちゃぷちゃぷはお庭でしようね」
「うわぁー!」
急遽始まった水遊びのため、小さな盥では手足を水に浸けて楽しむぐらいのことしかできないが、そんな些細なことでも幼な子にとっては楽しい夏の遊びになるらしい。