第114章 夏のひととき
「!?」
「……熱はないようだな。暑気あたりか?貴様は暑さに弱いからな。今の時期は辛かろう?」
信長は額を合わせたまま労わるように言うと、朱里の黒髪をさらりと撫でる。
唇が触れそうな距離で囁かれる優しげな言葉に、我知らずトクトクッと胸の高鳴りを覚えた。
「んっ…信長様、あの…」
「きちもー!きちもははとぴったんこしたいっ!ちち、だめっ!」
「はっ…吉法師、貴様はまた母を困らせておったのか?」
自らの存在を主張するように声を上げる吉法師に対して、信長は余裕の笑みを浮かべて幼な子をチラリと見た。
近頃の吉法師はどこへ行くのも朱里の後をついて回り、母親にべったりなのだった。
朱里に言わせれば、今はそういう時期なので仕方がないのだそうだが、幼い子供のすることとはいえ、信長は内心モヤモヤと複雑な思いを拭い切れないでいた。
「きち、ははと遊ぶの!お庭でいっしょにセミさんとるのー!」
「は?…セミ?」
予想外の子供の言葉に虚を突かれたような顔になる信長に朱里は慌てて説明する。
「あ、あの、セミ捕りがしたいらしいんです。この間、初めてセミを見てからすっかり気に入ってしまったようで本丸御殿のお庭に行きたいらしくて…」
「ほぅ…」
「昼間は暑いから日が暮れて少し涼しくなってからと思ったんですけど、吉法師は今すぐ行きたいらしくて…」
「はやくいかないとセミさん、いなくなっちゃうもん…」
ぷぅっと口を尖らせて拗ねたようにぽそりと言う吉法師を見た信長は、その小さな頭にそっと手を置き、撫でてやる。
「吉法師、セミはそう簡単にいなくなったりはせん。庭へ行くのは日が暮れてからに致せ」
「やっ!いやー!」
「ほぅ、嫌か?それは困ったな。父の言うことを聞いて日暮れまで良い子にしておれば、父はセミよりももっと面白いものを見せてやろうと思っているのだがなぁ?」
「おもしろい…?セミさんより?」
「そうだ。それは昼間には見られぬものだ。吉法師が母を困らせず、日暮れまで良い子で待っていられたら父が庭に連れて行ってやろうぞ」
そう言うと信長は吉法師を試すように見つめる。吉法師もまた父の射るような視線を正面から受け止めても怯える様子すら見せなかった。
「きち、いいこ…まてる」
「ならばよし。約束だ」
幼いながらもしっかりと言い切った吉法師に信長は満足そうに頷いた。