第110章 魔王の霍乱
安土を出た信長は馬首を北へと向ける。近江国は広大な湖を領土の中心に置き、領地の端は京や美濃にも接していた。安土に居城を構えていた折には、移動に船を使って湖を渡ることもあった。
朝の光を受けてキラキラと輝く湖面を見ながら、信長はゆったりと馬を歩ませる。できるだけ揺れぬようにと気を遣い、馬上で朱里の身体を支えていた。
「朱里、身体は辛くはないか?」
「はい。朝起きてすぐは少し身体が重かったですけど、今は平気です。心配かけてごめんなさい」
「よい、貴様の心配をするのは俺だけの特権だからな。世話焼きの秀吉がおらぬ今なら、思う存分貴様を構ってやれる」
「ええっ…」
冗談とも本気とも分からぬ物言いで言いながらも、風に煽られて乱れた髪をさり気なく整えてくれる。
そういった細やかな心遣いが嬉しくて、胸の内がふわっと温かくなった。
(それにしても、一体どこに向かっているのだろう。安土から北へはあまり来たことがないからよく分からないけど、この辺りは美濃との国境にも近いんじゃないかしら…)
安土を出てしばらくは湖沿いを進んでいたが、段々と湖から離れ、山の方へと向かっているようだった。いつしか馬は鬱蒼とした木々に覆われた森の中へと進んでいく。
どこへ向かっているのか、見せたいものとは何なのか、信長の意図するところが皆目分からない。信長と一緒なら不安なことなどないが、何となく居心地が悪い気がして、落ち着きなく周りの緑一色の景色をキョロキョロと見回してしまっていた。
「余所見をしてると危ないぞ」
腰に回った腕にグッと力が籠り、馬上でピタリと身体が密着する。
「だ、だって行き先が分からないままでは何だか落ち着かなくて…あの、一体どこに向かっているのですか?そろそろ教えて下さっても…」
「んー?」
「何だかどんどん山の奥へと入って行ってませんか?心なしか、どんどん上へ上へと登っているような気もするし…」
先程から次第に勾配がきつくなり、道は登りに差し掛かっていた。それに伴って自然のまま手付かずの険しい山道を進むことになり、馬上の揺れも激しくなっていたのだった。
(急勾配の山登り…もしかしてこのまま山を越えて美濃へ!?いやいや、それは流石に遠出過ぎるっ…)