第110章 魔王の霍乱
くっと楽しげに口角を上げた信長の顔が近付いてきて、あっと思う間に掠めるように口の端に口付けられる。ほんの一瞬のうちに舌先で唇を舐められていた。
「な、何を…」
「飯粒が付いておったから、取ってやったまでだ」
「も、もぅ…言って下さればいいのに…」
「口で言うよりこの方が早いだろう?」
恥ずかしさから頬を赤く染めて濡れた口元を拭う朱里に対して、信長は悪びれる風もなく口の端をペロリと舐める。視線を流し、赤い舌先を唇の間から小さく覗かせる仕草が色っぽくて目が離せなかった。
(もぅ…こんなの、心の臓に悪いよ。胸がいっぱいになっちゃって全然食べられる気がしない)
信長の醸し出す色気に当てられて胸の鼓動が煩く騒ぎ、どうにも落ち着かなかった。手にした握り飯の残りを食べてしまわねばと思いながらも、変に意識してしまってなかなか口をつけられなかった。
「そ、そういえば…何故、急に安土へ行くことになったのですか?何か急なご用事でもあったのですか?」
信長の視線が気になって食事が進まないのを誤魔化すように、城を出る時からずっと気になっていたことを尋ねてみた。
信長の行動は時として人の想像を超えるものがあるが、突飛な行動の裏には常に明確な意図がある。心の内を容易く外へ表さぬ性質(たち)のせいで誤解されやすいのだが、理由もなく気まぐれで動く男ではなかった。
「…安土へはついでだ。貴様に見せたいものがある」
「見せたいもの…?それは…」
「今はまだ言えぬ。今宵は安土に泊まるゆえ、着いたらゆっくり城下を見て回ればよい。馴染みの茶屋へ行くもよし、久しぶりに逢いたい者もおるだろう?」
「いいのですか?わぁ…楽しみです。ありがとうございます、信長様」
信長が言う『見せたいもの』というのが何なのか気にはなったが、久しぶりに懐かしい人々に逢える嬉しさに勝るものはなく、ゆったりと休憩を楽しむ気持ちも何処へやら、一刻も早く安土へ…と途端に気持ちが急いて居ても立っても居られなくなったのだった。