第110章 魔王の霍乱
「わぁ…」
久しぶりに見る近つ淡海は穏やかで美しかった。水鳥がゆったりと湖面を進むさまを馬上から眺めながら、朱里は感嘆の声を上げる。
安土を離れてまだ数年だが、澄み渡る穏やかな湖面を見れば途端に懐かしさが込み上げる思いだった。
「少し休んでいくか」
うっとりと湖面を見つめる朱里を見て、信長は馬の歩みを緩める。
信長が湖の畔に馬を繋いで草を喰ませている間、朱里は飽きることなく揺らぐ湖面を眺めていたが、ふと空を見上げて太陽の位置を確認すればそろそろ昼時であった。
「朱里、こちらへ来い」
呼ばれて振り向くと、信長は木陰に腰を下ろしていた。慌てて駆け寄ってみると、信長は手にした竹の皮包みを広げて差し出した。
「わっ…これ、どうしたんですか?」
見れば包みの中には大きな握り飯が二つ、大根の漬け物が添えられていた。握り飯には焼き味噌が塗ってあるようで、味噌が焼けた香ばしい良い匂いが鼻腔を擽り、途端に空腹を思い出させた。
今朝は忙しなく朝餉を済ませて城を出ることになったため、旅支度を整えるのが精一杯で、昼餉のことにまで気を回す余裕はなかったのだった。
「たまにはこうして青空の下で飯を食うのも良いだろう?」
信長は悪戯っぽく口角を上げて言うと、握り飯を一つ手に取ってパクリと頬張った。
そのやんちゃな子供の如き無邪気な仕草に思わず胸がキュンと高鳴った。
朱里も信長にすすめられるまま、手に余るほどに大きな握り飯に思い切って齧りついてみた。焼き味噌の香ばしさと塩気が米の旨さを引き立てており、素朴な味なのにどんな贅を尽くしたご馳走よりも美味しく感じられた。
「ふふ…美味しいです」
よく晴れた空の下、キラキラと陽の光を照り返して揺らぐ湖面を見ながら二人だけでゆったりと食事を摂る。慌ただしく城を出た今朝は、忙しい日常を忘れるようなこんな穏やかな時間が過ごせるとは思ってもいなかった。
「ゆっくり食え。先を急ぐ旅でもない」
大きな握り飯をペロリと平らげた信長は、慌てる朱里に鷹揚に声を掛けると彼女が食事を摂る姿を楽しげに見つめる。
見られていると思うと何だか気恥ずかしくて、小さな口で少しずつしか食べられなかった。
「っ…そんなに見つめられると食べづらいです」
「遠慮はいらん。好きに食え。くくっ…貴様、付いてるぞ?」
「えっ…?」
ーちゅっ…