第110章 魔王の霍乱
家康の言っていたとおり、その後程なくしてこの病は終息した。
一時は爆発的に増えた感染者も織田軍の迅速な対応により徐々に減少に転じ、結果的には死者の数も最小限に抑えられて民達の間にも大きな混乱は見られなかった。
ただ、やはり最終的に薬は十分には行き渡らず、救えた命がもっとあったかもしれないという苦い後悔がどこか心の片隅に残る形にはなっていたのだった。
(亡くなった者は戻らない。一人でも多くの者を救いたいと願ったけれど…薬が足りなかったことで命の選択をせざるを得なかった場面もあっただろう。今回、薬を作ることしかできなかった私にも何かもっとできることがあったかもしれない)
日常が戻った今も、ふとした瞬間に考えてしまう。
ああすれば良かった、こうすればもっと多くの民を助けられたかもしれないと時が経っても後悔の念は尽きなかったが、実際に民達の死を目の当たりにしたわけではない私がそれを口にすることは憚られた。
「……如何した?」
物想いに耽っていつの間にか俯いてしまっていた私の顔を、朝の支度をすっかり整え終えた信長様が覗き込んでいた。
「あっ…ご、ごめんなさい。私ったら、ぼんやりしてしまって…」
「構わんが…具合でも悪いのか?」
武骨な手が気遣わしげに頬に触れ、指先がそっと唇を撫でる。
「っ…んっ…大丈夫です。どこも悪くは…」
慌てて答えかけた私の頬を両手で包み込んだ信長様は、鼻先に吐息が掛かる距離まで顔を近付けて、見定めるようにじっと見つめた。
視線が絡み合い、胸の鼓動が忙しなく跳ねるのを感じて、息が詰まりそうになった。
「本当に…どこも悪くないのだな?」
探るような瞳の奥が僅かに揺れるのを見てしまい、はっと胸が締め付けられる思いがした。
(あ…信長様、心配して下さってるのかな)
「大丈夫ですよ。少し考え事をしていただけで…悪いところなんてありません」
安心して欲しくて、頬を包む信長様の大きな手に自分の手を重ね、深紅の瞳を見つめながらゆったりと微笑んで見せた。
「ならば良い。今日は…学問所へ行く日ではなかったな?」
「?はい」
「では、今日は一日俺に付き合え。安土へ行く」
「はい、えっ…安土?えっ、ええっ…」