第110章 魔王の霍乱
政宗の申し出に甘えて、私は先に天主に戻ることにした。
新しい白湯の入った水差しをお盆に載せて廊下を歩んでいると…
「ははー!」
ードンッ!
「わっ…わゎっ…ええっ!」
「はは、あそぼ!」
いきなり背後からぶつかられたことに衝撃を受けていると、ぎゅうっと足にしがみつく小さな手が見えた。
「き、吉法師っ!?どうしてここに…」
「申し訳ございませんっ、奥方様。若様がどうしても母上様と遊ぶのだと仰って…皆でお止めしたのですが、若様ときたらまるで風のようで…」
息を切らせながら廊下を慌てて駆けて来たのは、吉法師付きの侍女達だった。
吉法師は発達が早い子なのか、一歳を過ぎて歩き始めたと思ったら瞬く間に走れるようになっていた。それも子栗鼠のようにすばしっこくて、あちこち動き回るのを引き止めるのに侍女達はいつも苦労しているようだった。
「ごめんなさいね。朝から預けっぱなしで…悪いわね」
「い、いえ…そんな、畏れ多いことでございます。ですが、吉法師様は非常に活発でいらして…私共が相手では物足りないようで」
「うぅ…ごめんなさい」
(いや、でも実のところ母親の私でさえ吉法師の元気の良さにはついていけない時があるんだよね。やっぱり信長様の御子だからなのかな?こんなにやんちゃなのは)
「はは!」
グイグイと母の着物の裾を引っ張っては自分への注目を促す吉法師の姿は何とも愛らしくはあったのだが……
「ごめんね、吉法師。母は今日は一緒に遊んであげられないの。皆と一緒にお部屋にいてね」
「やだっ!きち、ははとあそぶの!おへや、いやーっ!」
「き、吉法師…」
(どうしよう…一刻も早く信長様のところに戻りたかったんだけど…信長様に似て言い出したら聞かない子だからなぁ、吉法師は)
生まれてから僅か一年あまりだが、もう既に見た目も中身も信長に似たところがちらほらと垣間見える我が子なのであった。
侍女達もオロオロしながら不満げに声を上げる吉法師を遠巻きに見守っている。
(困ったな。これ以上、皆の手を煩わせるわけにはいかないし。そうかと言って吉法師を連れて信長様のもとへ行くわけには…)
今にも泣き出しそうな吉法師を前に途方に暮れてしまっていたその時だった。