第109章 光秀の閨房指南ー其の弐
「……寝たか?」
いつものように寝かしつけた吉法師を寝台の上にそおっと下ろして寝所から出てきた朱里に、信長は声を潜めて問い掛けた。
「はい、今日は昼間よく遊んで疲れたようで…すぐに寝入ってくれました」
ふふっ…と小さく笑みを溢しながら、吉法師に乳を含ませるために崩していたのであろう夜着の袷の乱れを落ち着かなく直す朱里を見て、信長は微かに眉を顰める。
(今宵も乳で寝かしつけたのか…全くいつになったら…)
赤子に乳を含ませれば良く寝ることは頭では理解していたが、吉法師は既に一歳を過ぎ、一体いつになったら乳離れするのかと近頃は歯痒い思いも感じていたのだった。それでも無心に乳に吸い付く吉法師を愛おしげに見つめる朱里を傍で見ていると、母と子の至福の時間を無理矢理に奪うというのも気が引けて、厳しいことは言い辛かった。
おかげで毎夜モヤモヤとした何とも言えない気持ちになるのだが、それは朱里には言えぬことだった。
「…信長様?どうかなさいましたか?」
「いや…別に…」
(このような些細なことでこの俺が心惑わせているなどと知られるわけにはいかん)
何となく気まずくなって、さり気なく視線を逸らせた信長に気付くことなく朱里は信長の傍らへと歩み寄った。
「今宵はまだ時間も早いですし、少しお飲みになりますか?」
「ん…そうだな」
信長の返答を聞いて朱里はいそいそと続きの間へと向かうと、酒杯の乗った膳を手に戻って来た。前もって手配してあったのか、酒肴もいくつか用意されているようだった。
「何だ、もう準備しておったのか?それは…珍陀酒(ちんたしゅ)か?」
膳の上には紅い色をした異国の酒と思しきものが乗っていた。
『珍陀酒』とは、南蛮の商人から献上されて以来、信長が好んで飲んでいる異国の酒である。甘口の酒ではあるが単に甘いだけではなく、程よい酸味や渋味もあって原料である葡萄本来の甘さを感じられる濃厚な味の酒であった。
血のように鮮やかな紅色をした南蛮の酒を同じく南蛮の玻璃の高坏に注いで味わうのが信長の気に入りであったのだが……
「朱里、これは何だ?見慣れぬものだな」
酒の入った器を見た信長は、それを物珍しそうに指差しながら言う。