第108章 離れていても
此度、信長が京に長居したくないわけ…それはわざわざ尋ねずとも明白であり、実のところ光秀は既に主君の何とも微笑ましい望みを叶えるべく各方面と調整中であった。
(冷酷な魔王とも恐れられる御方が、妻の生まれ日を祝うのを楽しみになさっているとは京童どもも思いも寄らぬだろう。小娘へのご寵愛は何年経っても少しも変わらぬようだ)
光秀自身は生まれ日などにはさしたる意味はないと思っていたし、ましてやそれを当日に祝いたいという気持ちなどよく分からなかったが、朱里の喜ぶ顔を見たいという思いは信長と同じくであった。
おそらくは大坂で留守居を務める秀吉を始めとした武将達も同じ思いであるに違いなかった。
(今頃は秀吉が祝いの宴の準備に張り切っているところだろうか…彼奴の妹分への溺愛もまた、御館様に負けず劣らずだからな。秀吉だけではない。家康も政宗も…全く、揃いも揃って小娘に甘いことだ)
心の内で呆れたように思いながらも、朱里の輝くばかりの笑みを思い浮かべた光秀の表情もまた人知れず甘く緩んでいたのだった。
「明日の歌会始が終わり次第すぐにも出立したいところですが…この天候だけは些か読めませぬな」
閉めた障子の向こうを心配そうに見遣りながら光秀が言うと、信長もまた憂鬱そうに眉を顰めて障子の向こうを睨む。
音もなく降り続く雪は辺りに静けさを呼び、障子の向こうからはキンッと冷え切った冷気が伝わってくるようだった。
酷く積もれば、帰城は難しくなるだろう。
大坂までは近いとはいえ、厳しい寒さの中での移動は人にも馬にも堪える。自分一人なら何とでもなるだろうが、主(あるじ)の都合で家臣達に無理はさせられなかった。
「難儀なことだな。天気ばかりはさすがの俺でもどうにもできぬわ」
「おや、これは意外なことを仰る。御館様の思うままにならぬものが、この世にまだ残っておりましたか?」
「はっ…吐かせ。何事も天の思し召すままよ」
ニヤリと不敵に笑いながらそう言うと、文机に向かい、明日の歌会始に関する書簡に目を通し始めた信長を、光秀もまた口元を柔らかく緩めながら見遣るのだった。