第108章 離れていても
「此度は用事が済めば長居は無用、早々に帰城する。公家どものつまらぬ陳情は相手にせずともよい。酒宴や歌会の類いの誘いも全て断っておけ。時間の無駄だ」
「はっ、承知致しました」
徹底して容赦のない信長の口ぶりに、光秀は心の内で密かに苦笑いを溢す。
大坂に城移りしてからというもの、何かにつけて朝廷から上洛を求められることに信長が内心煩わしさを感じていることに気付いてはいたが、ここまであからさまに面倒そうな物言いをなさるとは…と意外な思いだった。
常の上洛では、嫌々ながらも無礼のない程度には公家衆との付き合いを保っている信長だったのだが、此度は余程早く大坂に戻りたいらしい。
「全く…歌会始など、特別上手い詠み手でもない俺が何故に招待されるのか…理解に苦しむわ」
「帝の直々の御指名ゆえ、致し方ないかと。御館様は十分に上手い詠み手かと存じますが…」
「はっ…世辞はいらん。詩歌なら俺より貴様の方がよほど秀でておろうが。しかしまぁ、新年早々このような平和な催しが開けるというのは誠に喜ばしい…とでも言っておこうか」
信長が足利義昭を奉じて上洛した頃の京は、往来は治安も悪く荒れ果てており、人心も荒廃していた。
公家達の中には経済的に困窮する者も多く、表面上は上手く取り繕っていても、歌を詠んだり風雅な遊びに興じたりするような余裕は到底ないような有り様だったのだ。
信長は義昭とは早々に決別し幕府を滅することとはなったが、朝廷への庇護は惜しまなかった。
信長には朝廷の権威を上手く利用し天下泰平の世を築くという思惑もあり、荒れ果てた京の町を元どおり美しく雅な都にするために力を惜しまなかった。
(公家衆が優雅な遊びに興じられるのも、京の都に対する御館様の庇護があってこそだ。朝廷の力だけでこの世を治めることなど出来るはずがない。だが、武力だけで天下を治めることもまた難しい。武士が治める世とはいえ、朝廷の権威を重んずる風潮はいまだ根強いからだ。御館様が朝廷を蔑ろにすれば、途端に織田に叛旗を翻す者も出てくるだろう。それが分かっているから、御館様も朝廷とは付かず離れずの関係を保ってこられたのだ)
織田の力を持ってすれば、朝廷を潰すことなど造作もないことだというのに…などと物騒なことを考えながらも、政(まつりごと)とは誠に難しい、と光秀は心の内で悩ましげに嘆息する。