第107章 嫉妬は甘い蜜の味
雲一つなく澄み渡り、どこまでも広がる青空を見上げて信長は口角を上げた。
信長が見上げる先には、尻尾を付けた菱形の凧がうなりを上げて空を泳いでいた。
「うわぁ…どんどん高く上がっていくよ!あにうえ、すごい!」
傍らではお市が悠々と空を泳ぐ凧を指差して感嘆の声を上げていた。
城下外の河原へお市と勘十郎を伴ってやって来た信長は、二人にせがまれて凧を上げていた。
好天に恵まれた元日の空は冬らしい澄んだ空気を纏い、上空は程良く風が吹いて絶好の凧揚げ日和であった。
凧は元々は古代中国で作られたもので、紙鳶(しえん)と呼ばれていた。紙鳶とは紙で作られた鳶(とび)という意味であり、紙鳶には、伝説上の生物である鳳凰(ほうおう)や竜、鳥や獣などが描かれていたそうだ。
凧は平安期には日ノ本にも伝わり、古くから公家達の娯楽の一つとして親しまれてきた。
戦国の世となり武家の間にも広まった凧は戦において軍の通信手段として使われるようになり、敵までの距離を測ったり、凧を使って遠くへ放火するなど、戦いの道具等としても使われるようになる。
例えば伏兵が潜んでいると思われる場所に凧を揚げて、敵が凧に気付いて鉄砲を発射してきたら、その敵の居場所と鉄砲の火力が推察できるというようなやり方が用いられていた。
軍事目的として使われる凧も子供らにとっては楽しい遊びに変わりなく、広い大空を悠々自適に泳ぐ凧の姿は子供達の興味を惹きつけて止まないようだった。
「あにうえっ、もっと!もっと高く上げて!」
「おぅ!任せておけ」
妹の期待と尊敬に満ちた視線に気を良くした信長は自信満々に言い放つと、糸を巧みに操り更なる高みへと凧を昇らせる。
糸が風に震えて低いうなりを上げるのを聞きながら、信長は空の彼方で自由に泳ぎ回る凧を見つめていた。
(正月に凧揚げをすることになるとは思いも寄らなかった。俺の子供時代といえば幼き子供がするような遊びとは無縁だったからな。幼き市の相手をするのは…思いの外楽しい)
ここへ来るまでは家族に会うのが憂鬱で堪らなかったというのに、今この瞬間にはそれがまるで嘘のように信長は満ち足りた心地がしていた。知らず知らずのうちに表情も柔らかくなり、弟や妹と他愛ない遊びを愉しむまでになっていたのだった。