第107章 嫉妬は甘い蜜の味
「もぅー、勘十郎あにうえばっかりずるいよ!三郎あにうえ、次は市と遊んで!」
母とともに道場に来ていたお市は、自分が一向に構ってもらえない状況に痺れを切らして可愛らしい頬をぷくりと膨らませながら抗議の声を上げた。
(市だって三郎あにうえと遊びたいのに、勘十郎あにうえばっかりずるいっ!三郎あにうえったら、ちっとも遊びに来て下さらないし…市は…誰よりも三郎あにうえが好きなのに…)
年の離れた兄がうつけだ、乱暴者だと城の者達から口さがなく噂されていることは知っていた。
だがお市が知っている信長は、自分には滅法甘く、他愛ない子供の遊びにも嫌な顔一つせず付き合ってくれるような優しい兄だった。
そんな兄がお市は大好きだった。
「市、兄上達を困らせてはいけませんよ。遊びなら母がお相手致しましょうぞ。さぁ…」
「イヤっ!市は三郎あにうえがいいの!あにうえっ!」
母が差し出す手を振り払ったお市は、小さな手で信長の足にぎゅうっとしがみついた。
決して離れまいとでも言うような必死さでしがみつく小さな妹の姿に信長もまた心がじんわりと温められたような心地になる。
家中の者からは手に負えない厄介者として扱われている自分を純粋に必要としてくれる稀有で愛らしい存在である妹を、信長もまた心から大切に思っていた。
「まぁ、市ったら聞き分けのないことを言うものではありませんよ」
駄々を捏ねるお市に母の顔が少し険しくなったのを見た信長は、自分の足元にいるお市をさり気なく後ろへ隠すようにする。
「母上、俺は構わん。俺でよいならいくらでも遊び相手になってやる。カルタでもコマ回しでも凧揚げでも、何でもよいぞ、市」
「ほんと!?あにうえっ、大好き!」
「まぁ…お優しいこと。それではお願い致しましょうか。三郎殿にお任せすれば安心ね」
そう言って母は子供達を見守るように穏やかに微笑んだ。
(こんな風に言われたのも初めてだ。母はうつけの俺が市に構うのを嫌っているのだと思っていた。市が俺に懐いているのを見て良い顔はしていなかったはずだからな)
嬉しそうな母の笑顔を信長は複雑な思いで見る。
自分に対する家族の態度が過去の記憶とあまりにもかけ離れていることに戸惑い、これは夢なのか現なのか、それすらもよく分からなくなっていた。