第107章 嫉妬は甘い蜜の味
その後、何度打ち負かされても諦めない勘十郎の相手を信長自身も楽しんでやっていると、珍しく母が道場にやって来た。
「まぁまぁ、二人とも熱心なこと。されど少し休憩なされては如何か?新年なのですし、三郎殿もゆっくりなされて…勘十郎、あまり兄上に我が儘を申してはいけませんよ」
優しげな言葉を掛けながら慈愛に満ちた笑みを浮かべる母は、これもまた信長が見たことのない母の姿だった。
信長の知る母はいつも父の傍で遠慮がちに控え、手ずから育てた勘十郎とは違って信長には関心が低いのか、声を掛けることはおろか、家族らしい親密な触れ合いなどしてこなかったのだ。
信長の知る限り、母から優しい言葉を掛けられた記憶はなかった。
うつけだ阿呆だと罵られるばかりの息子に呆れ、疎ましく思っていたのだろう。剣術の手合わせなど野蛮なことだと、自ら様子を見に来るような母ではなかったはずだ。
これもまた夢の成せる技かと戸惑いながら立ち尽くしていると、母は徐ろに信長に近付いて…その額に浮かぶ汗を手ずから手拭いで拭い始めた。
「つっ……」
そっと汗を拭う優しい手つきと柔らかく微笑む母の顔を見てしまい、心の内が酷く戸惑い揺れ動く。
白魚のような美しく華奢な母の指先が額に触れ、そのひんやりとした冷たさが鍛錬で火照った身体には何とも言えず心地が良くて、堪らずぎゅっと眸を閉じた。
こんなことはあり得ない。こんなにも母が自分に優しいことなどあるはずがない。母が大切に思っているのは俺ではなく勘十郎の方なのだ。
勘十郎の心配はしても俺を気遣うようなことはないはずだ。
母が俺にこんな風に優しげに触れるはずなどない。
信長は目の前の慣れぬ光景を心の中で必死に否定する。
母の優しさに戸惑い、その優しさに甘んじてしまうのが恐ろしかった。
それでも……母の手を振り払い拒絶することはできなかった。
「っ…母上っ…」
「少し逢わぬ内に大きゅうなられたようじゃ。じきに母の手が届かぬようになられますな」
そう言って信長を見る母の目はどこまでも慈しみ深く、子への愛情に満ちていた。
それは幼き信長が求めて止まなかった母の愛そのものだった。
「母上っ、俺は…」
堪らず信長が口を開きかけたその時……