第107章 嫉妬は甘い蜜の味
モヤモヤと晴れぬ胸の内を抱えながら広間に入り、上座に座る父と母の前に腰を下ろす。
形式的にでも挨拶を済ませようと嫌々ながら頭を下げ、口を開こうとしたのだが……
「よう来た、三郎!待っておったぞ。久しぶりじゃのう…息災にしておったか?面構えがまた一段と良うなったようじゃの」
「ほんに…少し見ぬ間に逞しくなって…だいぶ背も伸びたのでは?三郎殿、よく顔を見せて下され」
「兄上!お久しぶりです。今日はゆっくりしていって下さるのでしょう?勘十郎は兄上と手合わせするのを楽しみにしておりました」
「あ〜、ずるい!市と遊ぶ約束の方が先だよ!」
「………………」
(これはどういうことだ?やはりこれは夢なのだ…こんなはずは…)
このような仲睦まじい家族の会話など有り得ないというのに……
父も母も慈愛に満ちた目で信長を見つめ、弟は兄に揺るぎない尊敬の眼差しを向けている。
生まれてこの方、この身はそんな風に見られたことなどなかった。父も母も弟も、自分とは距離を置いていたはずだ。それなのに…
信長は困惑しながらも自分とは面立ちも性質も異なる弟を複雑な思いで見遣る。
(弟は…勘十郎は俺が殺した。俺の目の前で血を流し、地に伏したあの日の光景は忘れようとしても忘れられない。後悔などしていないが、何故だろうか、何年経っても目に焼き付いて離れないのだ。
俺と勘十郎はこのような仲の良い兄弟ではなかったはずなのに…)
勘十郎は家督を望む野心など微塵も見られないような屈託のない笑顔を信長に向けてくる。
それが日常の当たり前の光景であるかのような自然なその笑顔に、信長の心は激しく揺さぶられていた。
「三郎殿、どうなされた?顔色が良くないようじゃが、もしや気分でもお悪いのでは?」
母が心配そうに顔色を窺うと、父や弟妹達も口々に信長を気遣う言葉をかけてくる。
幼き頃の信長が諦めたはずの暖かな家族の時間がそこにはあった。
こんな茶番はどうかしている、これは偽物の家族なのだと思いながらも信長は声を上げることができなかった。
「っ…何でも…ありません」
らしくもない小さな声でそう言って、にわか家族の気遣わしげな視線から目を逸らし、黙って俯くのが精一杯だった。