第107章 嫉妬は甘い蜜の味
弟の名を聞いて信長の胸にはチクリと苦い痛みが走ったが、何も知らない無垢な妹に気付かれてはならないと表情を隠した。
お市の手を引いて父母の待つ広間へと向かう信長の足取りは重かった。
新年とはいえ、常日頃から厳しい父が叱責の一つもしないとは到底思えないし、母が優しい声を掛けてくれることも期待できなかったからだ。
(堅苦しい挨拶などどうでもよい。そんなものよりも城の外に出て領民達と新しい年を祝う方が余程益があるというものだ。じいが煩く言うから仕方なしに来てやったが、今更父や母に会ったとて何になるというのだ)
この頃の信長は不機嫌さが態度に出ぬよう取り繕えるほど器用ではなかったし、本能の赴くままの奇想天外な行動は家臣達を戸惑わせることも多かった。
品行方正な弟、勘十郎と比べられ、うつけの信長では織田家の跡目に相応しくないと重臣達に陰口を叩かれていることも承知していたが、信長にしてみれば、古めかしい価値観に執われて狭く小さな尾張国の中で小競り合いを繰り返している父の有り様が歯痒くてならなかったのだ。
具体的にどうすればいいかなど分からなかったが、京や堺へ出入りしている商人達から異国の話を聞くうちに、尾張から外へ、日ノ本から海の向こうへ…そのまた先までも見てみたいという思いが日に日に強くなっていた。
広い世界を見てみたいという思いを抱き、今はまだこの小さな国でどうにもならない閉塞感を抱えながらも、信長は着実に己のやるべきことを成そうとしていたのだが、彼の周りでそれを真に理解する者は少なかった。
(この国に生きる誰もが皆同じように憂いなく生きられる世にならねばならん。武士も町民も同じだ。そもそも生まれながらの身分の差などというものはない。それは人が作り出したものだ。そんなものは何の役にも立たんというのに…)
無能な者が身分が高いだけで重用されるような世を変えたい。低い身分であっても真に力のある者が思う存分に力を発揮して働けるような、そんな世を作りたいと信長は思っていた。