第107章 嫉妬は甘い蜜の味
信長が僅か二歳で父母と離れて那古野城の城主となると、彼に付き従ったのは乳母と傅役の政秀のみであった。
父、信秀は幼き信長の才を認めていたが、常に厳しく接し、優しい言葉をかけるようなことはしなかった。
母もまた、幼くして己の手から離れた信長を顧みることはなく、後に生まれた弟に全ての愛情を注いでいるようだった。
信長の方も武家の嫡男らしからぬ破天荒な言動が目立ち、国内外から『尾張の大うつけ』と噂されるようになると、父母との関係も一層冷えたものになっていた。
(挨拶だけしてさっさと帰ればよいか。どのみち向こうも親子水入らずなど望んではおらんだろう)
馬を駆けさせて古渡城に到着すると、案内も待たずにズカズカと城内へ足を向ける。
己の意思で避けられぬなら、面倒事はさっさと済ませてしまおうという心積もりであった。
「三郎あにうえっ!」
乱暴な足音を立てて勝手に廊下を進む信長を家臣達が止められずにオロオロしているのを見て内心冷めた思いでいると、鈴を転がしたような可憐で何とも可愛らしい声に名を呼ばれ、思わず足を止めた。
「市っ!おぉ、久しぶりだな。少し見ぬ間に随分と大きくなったようだ。益々愛らしくなって…見違えたぞ!」
「あにうえ、会いたかったぁ!」
小さな身体で信長の足元にぎゅうっと抱き着いてきたのは、年の離れた妹、お市であった。
今日は新年ということもあり、幼い子供ながらも雅やかな着物を着て可愛らしく着飾っている。
美形揃いの織田家にあっても、お市の可愛らしさは際立っており、子供ながらに周りの者を惹き付ける魅力のある少女であった。
「あにうえ、ちっとも遊びに来て下さらないんだもの。市、寂しかった…」
「市…」
お市はまだ幼く、信長に向けられる批判的な声なども知らず、父と母、周りの者達に目一杯愛されて育った純粋で真っ直ぐな少女だった。
織田家の中でただ一人信長を慕ってくれる妹を信長もまた大層可愛がっていた。
「あにうえ、市とカルタで遊んで!独楽回しも見たい!」
久しぶりに会った兄を離すものかと信長の着物の裾をぎゅっと握り締める市に、信長は困ったような曖昧な笑みを見せる。
「仕方がない奴だな。俺は父上に新年の挨拶に来ただけなんだがな…」
「ちちうえにご挨拶?じゃあ市も一緒にちちうえのところに行く!勘十郎あにうえもいるよ」
「……勘十郎も、か…」